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レディ・ジョーカーに祝杯を捧げよ 52

 やけに静かな朝だった。
 早く早くと急き立てる者は誰もおらず、わたくしはゆったりと朝の仕度をした。女王となって、このようなことは初めてだった。部屋に入ってくる者はおらず、何もすることがなかったわたくしは、手紙を書こうとペンにインクを浸した。
 その時、一斉に鐘の音が鳴り響いた。何が起こったのかと思い、吸い寄せられるように窓の外を見る。どうやらロンドン中の鐘が鳴っているようだと分かり、わたくしは呆然とその光景を見た。鐘の音と共に、外から賑やかな声が風にのってやってきた。まるで何かを祝福しているようだった。わたくしは、思わず窓から離れた。
 誰かにその鐘の音は何なのかを聞きたいのに、わたくしの周りには誰もいない。いつも書類を持ってくる侍従も、あちらこちらにいるはずの侍女も見当たらない。その日、わたくしの傍に残っていたのは、父であるサフォーク公爵と夫のギルフォートだけだった。枢密院の皆は姿を消し、わたくしの母と義母までもが塔を出ていたことを後で知った。塔の中は静まりかえり、わたくしは敗北したのだと悟った。
 残されたわたくし達は、静かにその時を待った。
 やがて、ロンドン塔に兵士がやってきて、わたくしたちを捕縛した。3人とも抵抗もせずに受け入れた。兵士たちは枢密院によって派遣されたものだと知ると、わたくしは力なく項垂れた。
「これで家へ帰れるかしら?」
 わたくしが父にそう聞くと、父は項垂れたまま答えることはなかった。
 わたくし達が家に帰ることは許されず、ロンドン塔の中にある建物へ入ることになった。3人とも引き離され、それぞれが別の場所に幽閉されることになった。ギルフォートが、不安そうにわたくしを見ながら兵士に連れて行かれた。(もし、わたくしと結婚しなければ、このようなことには巻き込まれなかったのではないかしら)と思い、胸が痛んだ。彼は確かに女癖が悪く、素行の悪い青年だったが、だからと言って捕らえられるほどの罪を犯したわけではない。むしろ、彼よりも罪を犯している貴族の方が多いだろう。女王の夫になっても、何の権限も与えられず、むしろ逃げることすらせず最後までわたくしの傍にいてくれた。わたくしは彼のことを好きにはなれないが、ただ、彼のことは哀れに思った。
 枢密院がメアリー様を女王にすることを決めた、と誰かが知らせてくれた。人々は喜び、一晩中飲み明かしたという。
 わたくしが女王として扱われたのは、たったの9日間だった。いや、女王として扱われていたと言えるのだろうか。メアリー様のように「女王様、万歳」と、歓声があがることもなく、こちらを不安そうに見ていた人々を思い出した。悔しいことに、わたくしは義父の御膳立てて女王の椅子に座っていただけだったのだろう。義父がいなければ、わたくし一人では枢密院の皆すらまとめることすら出来なかった。わたくしの一番近くにいて、最も守ってくれるずだった枢密院がわたくしを裏切った。その事実が、わたくしを絶望へ突き落す。今まで必死に勉強し、女王となってからも必死にやるべきことをこなしてきたつもりだったが、力が及ばなかった。  
 何がいけなかったのだろう、何がメアリー様と違ったのか、ずっと考えていたがすべて間違えていた気がする。小さな頃から女王になるべく研鑽を積んできたのであろうメアリー様、かたや、国王の妃になるために育てられたわたくし。常に命の危険に晒され生きてきたメアリー様と、身体を打たれはするものの命の危険はない生活をしてきたわたくし。小さな頃からイングランドの国民をどう導くかを考えていたメアリー様と、女王の椅子に座ってから考え始めたわたくし。
(ああ、どうして今まで気づかなかったのだろう。すべてが違っていたんだわ、だって・・・)


 わたくしは最初から 女王になりたいと思っていなかった。
 

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