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安東量子 『海を撃つ』 の感想

はじめに

 以前ツイッターに投稿した感想の再掲です。ツイッターのアカウントは複数あり、かつ頻繁にツイ消ししてるので自分でもどのアカで投稿していたかは忘れてしまいました;検索してももう出てこないし...

 あと本文冒頭で述べている通り「読書メーター」というアプリに最初に短いのを投稿しています。

 Twitter、note、読書メーター、それぞれのアカウントに共通するキーがないのでほんまにお前が書いたんか?とか言われても証明する手立てがないです;全部連携してくれればいいんですけどね

以下本文

『海を撃つ』
の感想です
読書メーターに感想を書いたが書き足らなかったのでツイッターにも

読書の場合「目」を引くと言えばいいのか、ともかく記述の仕方が独特なので原発事故の単なる、あるいは客観的な記録として読む人間は面喰らうだろう。

いま書いた「客観的」という言葉は「科学的」という言葉に置き換えることもできるだろう。
では著作は非客観的≒非科学的なのかというとそうではない。

確かに作中には諸々のデータや概念が論文のように数多く登場するわけではないが、著者の原子力科学についての認識は勿論のこと、当時の政治情勢やマスメディアの報道に対する認識は多くの正確な情報源に基づいてかたちづくられたものであろうことは一読してすぐにわかることだ。

では著作を客観的≒科学的な記録として期待する者を良い意味で裏切る記述とはどのようなものなのかというと、それは時に幻想的であると言い得るほど文彩に富んだ記述、一言で言うなら文学的な記述である。

文学的手法によって原発事故を取り巻く様々が描写されるのには必然的な理由があるだろう。なぜ筆者はエッセイのような記述方法を採用したのか、せざるを得なかったのか。

それは、筆者みずからが明言するように、いわゆる科学的記述によっては表現し切れない何かがあり、筆者はその何かこそをすくい取らねばならなかったからだろう。

その「何か」を指し示すに最もふさわしい言葉として選ばれるべきは、作中にも数え切れないほど登場する「記憶」という言葉に他ならない。

原発事故の影響によって住む土地を汚染、それも放射性物質という不可視的なものによって汚染された地域住人たち一人一人が持つ記憶。その一人一人が先祖から、土地から受け継いだ記憶。あるいは土地そのものの持つ記憶。

原発事故とそれに伴って発令された政府による避難指示等の影響によって住み慣れた土地から離れざるを得なかった人々の記憶、またその人々によって積み重ねられてきた、そして事故がなかったならば未来においてもまた積み重ねられていったであろう土地の記憶。

人々の記憶と土地の記憶。互いに補完し合うかたちで絡み合うそれらの記憶が、記憶の持ち主たちの意志に反して失われていく様を、筆者は福島という土地で、ベラルーシで、あるいは生まれ故郷の広島で、目の当たりにしてきたのではないか。

記憶なるものの消失を防ぎ存続させるための手段として筆者がとったのが、それを記述することだったのだろう。そしてその記述の方法としてふさわしい形式が文学的だったということなのである。

著作の文学的側面は、科学的な視点の恣意的な排除によってではなく、論理的な必然性に基づいてもたらされたものである。

と、まあこんな感じです

震災後に原発事故についての本を手に取ったもののいまいちピンとこなくて、その後はメディアの報道を気が向いた際に追う程度で、もちろん考えなきゃいけない問題ということはわかっていたものの、興味は日々の生活のなかで希薄になるばかりだった。

それには僕自身の問題、興味の薄さや東京に住んでいる人間としての後ろめたさ等があったのはもちろんだけれども、日常のなかで触れる福島の情報が単なる一情報でしかなかったからかもしれない。

政治や経済、あるいは三面記事のニュースと同様の単なる情報でしかなかったし、いまでも原発事故関連のニュースはあくまでニュースでしかない。

もちろん信頼度の高いメディアによる情報は役には立つが、それは日常を支えるものとしての利便性の高い情報でしかなく、裏を返せば東京での日常から心理・物理的に離れた被災地のことを強く考えさせるものではない。

そのような情報にあふれるなか、文学的色彩の濃い本作は、マスメディアの記者や科学の専門家らによって提供されたきた「情報」が今まですくってこないできた記憶という領域を表現することによって、読者の頭にその記憶を記憶させる。

本作を通読することによって、一般的な意味での原発事故の影響に詳しくなるかと言うとそうではなかろう。そのような事情については、読者は一部の記者や専門家に到底かなわないことは言うまでもない。

だが本作は科学的記述が決してなし得ない記憶という領域を文学の手法によって喚起し、読者をして記憶を生きさせることによってその記憶の持ち主たちに対する想いを養うであろう。

そのことに何の意味があるのか。おそらくプラグマティックな意味は一切持たない。筆者が表現した範囲における記憶を頭の片隅に置くだけだ。だがそのことによって復興が進むわけではないとしても、その記憶を持つということに意義がないわけではなかろう。

その意義とは具体的に何なのだと言われても僕にはわからない。たぶん誰にもわからない。それでも、そのような記憶を生きることによって読者にもたらされるものがあるはずである。それが何なのかについて考えるべきは僕を含めた読者が果たすべき務めであろう。

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