『ポールプリンセス!!』蒼唯ノア・ポールダンス「眩暈の波紋」考察
今回は先日公開された蒼唯ノアのポールダンスショーについて考察していきます。
ポールダンス×日本舞踊という新機軸のポールダンスショー。
本考察では、まずショー全体について見ていきながら、このショーの中に込められた日本文化の心の在り方とポールダンスの新たな可能性について見ていきます。
ポールプリンセスについて
ポールプリンセスはポールダンス×星空の物語。
主人公の名前に星北とあるように、ポールダンスのポールと北極星(ポールスター)がかかっています。
宇宙の中で不変不動の中心として存在する北極星(ポールスター)を憧れとし、ポールダンスのポールを”心の芯”として見立て、それを中心に舞い踊る少女たちの青春を描く物語となっています。
キャラクター紹介
蒼唯ノアのキャラクター紹介です。
ビジュアルは、黒髪ロングの和装といかにも大和撫子と言った感じです。しかし、和装は半分ですしよく見ると瞳の色が左右違ういわゆるオッドアイになっていたりと定番からあえてズラしている点も見られます。(立ち絵だけですが黒髪の毛先が白のグラデーションになっています。)
ポールダンス界の絶対王者に君臨するユカリの幼馴染で、同じ「エルダンジュ」というチームのメンバー。自己紹介動画ではユカリとの関係の深さ垣間見え、ノアにとってのユカリはとても大きな存在であることがわかります。
日舞の家元に生まれているということで、実家からは将来は後継ぎとして期待されていることもうかがえます。
八方美人、事なかれ主義、空気を読みすぎる、と装いどおりのいかにもな日本人っぽい性格のキャラとなっていて、「自分」がないというのが悩みのようです。
楽曲について
蒼唯ノアの楽曲「眩暈の波紋」について見ていきます。
(本考察は、フルでの視聴を前提としてます。各種配信サイトで公開中で無料でも視聴可能です。)
本楽曲は、ポールダンスと日舞の間で揺れるノアの心を描いた楽曲になっています。
「眩暈の波紋」というタイトルには、「ユカリの魅せるポールダンスの世界に揺れる心」と「ポールダンスと日舞との狭間での葛藤」2つの意味があります。
幼馴染であるユカリの楽曲「Queen of Fairy Sky」には「魅せつけてあげる 眩暈 起こすほどのFantastic その瞳」という歌詞があり、「眩暈の波紋」というタイトルはこの歌詞と連動しています。日舞の家元で家業を継ぐ定めのあるノアにとって、眩暈を起こすほど魅力的な世界を映すユカリの存在はポールダンスの道という誘惑の波風をもたらします。
また、それは同時にノアの心にポールダンスと日舞、二つの道を示すことになります。ポールダンスか日舞か、二つの狭間でクルクルと悩み葛藤するノアの心もまた眩暈として表現されます。
(この思うようにいならない苦悩を眩暈と表現するのはポールダンスで初心者が回転技をするときに目を回してしまうことから来ているように思われます。)
一番ではユカリのポールダンスに魅せられ心に波風を立ててしまう姿が、二番ではそれによってポールダンスと日舞の狭間で苦悩する心が、そして三番ではその葛藤を乗り越えていく姿が描かれます。
以上を踏まえて蒼唯ノアのポールダンスショーについて細かく見ていきます。
ポールダンスショー考察
ポールダンスショーを時系列順に見ながら、楽曲やショーの映像に込められた意味を一つずつひも解いていきましょう。
霞みがかかり彩度の低い色を基調としたステージは、ノアの心の世界でしょうか。どこか澄みきることのない印象です。
「波風もたたずに」とノアの事なかれ主義な性格が歌われ、一方で「在り来たりばかり・・・」とそれに対する反抗心も見て取れます。
”水鏡”とありますが神社の鳥居がみられることから、神社の御神体である神鏡の役割を持つと思われます。神鏡は見た人の心を映すともいわれることからも、自身の心をのぞこうとするノアの心情と合致します。
また、鏡(かがみ)は我(が)をとって覗けばそこには自身の内にある神(かみ)が映るともいわれています。
ここでの花びらはユカリを意味していると思われます。ヒラリハラリと花びらが回転しながら舞う姿とポールダンスを重ね合わせているのでしょう。
ユカリに魅せられポールダンスの道に心が揺れるさまが歌われます。
サクラの花びらと共に一気に色づき視界が開けるような演出は、今まで事なかれとやり通してきたノアの中で世界がユカリのポールダンスを見て動き出したように感じさせす。
ポールダンスでは、身体の軸とポールとの距離が離れるほど回転が遅くなります。
事なかれ主義で波風を立たせたくないノアは、ひじと膝の部分をポールにかけ、身体の軸をポールから離し回転を遅くしようと抵抗を試みます。
しかし、「花びらは無情」でノアの心を容赦なく揺らし波紋を立てます。この”無情”を”無常”と読んでも面白いかもしれません。
ポールを回るノアはどか窮屈そうで、その姿には苦しみや戸惑いの感情を感じさせます。
そして、そのように眩暈の波紋が立った水面には、ノアの見たかった姿が映ることはありませんでした。
ポールダンスショーでは歌われていませんが二番の歌詞も見てみましょう。
「揃えた白い指先・・・」と日舞では指先を揃えるのが基本姿勢となります。日舞から離れようとすると戸惑いを感じてしまうノアの感情が、指の隙間に流れた風が渦巻く様子で表現されています。
それくらい、ノアにとって日舞は切っても切り離せないくらい大切なものであることが分かります。
「後ろの正面は何」はかごめかごめの歌から引用です。意味は諸説ありますが、ここでは見えないが確かにそこに居る存在として神を指しているのではないかと思われます。
葛藤しくるくると回る姿はまるで輪廻にとらわれ苦しむかのようです。
要返しという聞きなれない言葉が出てきますが、要返しとは、扇子の骨をまとめている要という部分を中心に扇子をクルリと回転させる日本舞踊で扇子を扱う際の技法のことです。
ここの”要返し”にはポールダンスの回転と心の葛藤がかかっていて、空の糸(ポールダンス)に惹かれながらも日舞から離れられない二つの矛盾する気持ちの間でぐちゃぐちゃになるノアの感情が見事の表現されています。
このように二番の歌詞は、ポールダンスへ魅かれる気持ちと日舞から離れることのできない気持ちの間でノアが葛藤する姿が描かれます。
そうした、ポールダンスと日舞の間で揺れるノアを導いたのはサクラでした。事なかれと永遠不変を心のどこかで求めていたノアですが、サクラの魅せる刹那の美しさはノアのそうした執着から解放するきっかけとなります。
サクラの刹那の美しさは「もののあはれ」と呼ばれるような日本人の独特の自然観、無常観からくる美的感覚であり、和風のノアのキャラクター性がそのまま表れています。
このシーンは扇子を持つ独特の指の配置からも2番の歌詞でも出た要返しと呼ばれる扇子を要(かなめ)を中心に回転させる技巧をしていると思われます。
こちらは、菱川師宣の浮世絵「見返り美人図」をイメージしたかのような振り向きで、これも2番の歌詞にあった「後ろの正面」を思わせます。
サクラの舞い散る姿を通して、回転すること、心に波風が立つことを受け入れたノア。回るからこそ美しいのだと、サクラ舞い散る美しさに要返し、見返り美人、そしてポールダンスが重ねられ、無常の世界を生きることの美しさが表現されています。
さらに、ヒラリハラリと桜の花びらが舞う姿をノア自身が舞いによって表現しますが、日本舞踊の特色の一つには風景描写があります。
自身が自然の一部となって風景を描写するのは、バレエやフラメンコなど他の舞踊にほとんど見られない特徴だそうで、これも自然と人間は一体であるという日本の自然観がもたらした表現といえるでしょう。
自然と一体となることは、自我が消失を意味し、無我の境地や何もせず自然にあるがままの無為自然のようないわゆる悟りの境地に至る姿とも解釈できます。
日舞の扇子にはユカリを表す白鳥と桜の花びらがあしらわれていることから、ポールダンス×日舞の融和の象徴を表していると思われます。空に投げた扇子は星になりますが、これは北極星(ポールスター)を意味していて、ノアの進むべき道として北極星が輝いたということでしょう。
北極星はプラネタリウムのような光の帳を下ろすと、サクラはまるで満天の星空のように青白く輝きます。これは、永久への執着から離れ、サクラのように無常の世界を生きることでさながら星のように永久に輝くことができるという意味でしょう。
不安が消えたことによって、「凛とした微笑」が水面に浮かびます。
水面に映るということは心が澄み渡り波紋が消え、静かな水面になったということ。まさに、明鏡止水といった心持ちでしょう。
ただ、静かになったと言っても、水面の上に灯篭があるように、命を燃やすような思いは、その中から失われることはありません。
何が映ったか明確にはされていませんが、ここで水面に映った姿は鏡(かがみ)から我(が)をとった神(かみ)の姿が映ったのではないでしょうか。
水面には仏教で悟りを表す蓮華(ロータス:Lotus)があることから、「本当の私」とは真我や仏の悟りのような意味合いであることが分かります。また、神道の鳥居と仏教の蓮華の両方があり、鏡に映る神や仏の心を思わせる描写から、神と仏を同一視する神仏習合の考え方も描かれていることが分かります。神仏習合は日本古来からの神道と外来仏教が合わさってできたもので、ノアにとっての日舞とポールダンスの関係と重なります。
「さぁめぐる季節と・・・」のところでは、悩み苦しんでいた時とは打って変わってポールと一体となった早い回転を見せます。スワンというトリックから羽ばたくように腕を広げ憧れに向かって飛んでいく姿を表現しています。
ノアの世界を明るく照らすあけぼのは、春の訪れと同時に、悟りの目覚めを表しているように思います。また、この鏡に映った自分の姿を見つめ世界に太陽が戻るという物語ですが、この根底には日本神話の有名な天の岩戸の物語があるように思われます。
眩暈の波紋とは、苦しみ、葛藤とは常に現実と認識のギャップによって心に矛盾が生じることで起きるものです。ユカリの起こした眩暈の波紋、ポールダンスへの憧れは、ノアの心に日舞かポールダンスかという矛盾を生みます。この二元論の対立は、表層の自我や言葉に囚われることで無意識のうち生まれるこうあるべきという固定観念が起こすものです。
悟りとは差を取ることとも言われたりもしますが、そうした表層にある自我、言葉への執着から離れ、無常・無我である現実をありのまま受け入れ、自然と一体となって生きるとき、苦しみの元である二元論による矛盾から解放され、奥底にある仏の心が目覚め、鏡のように静かに止まった心の水面には神が映るのです。
眩暈の波紋のその先へ、眩暈の波紋は確かに苦しみを生みますがそれを乗り越えた先には真の心の平安が待っているのです。
無為の中心
ここまでノアのポールダンスショーについて細かく見てきましたが、次にノアの心の芯であるポールに込められた意味について見ていきましょう。
今回のノアのショーではポールは「自分がない」というノアの心を表現しています。これは、日本文化の中空均衡構造と呼ばれる特徴を表現しているものと思われます。
中空均衡構造とは
『中空均衡構造』とは、日本のユング派心理学の第一人者である河合隼雄氏(臨床心理学者、京都大学名誉教授、元文化庁長官)が日本神話の最大の特徴してあげたもので、この『中空均衡構造』というのが日本人の心の在り方を理解する上で重要であるとしました。
河合氏は、古事記に冒頭に登場する三神(タカミムスビ・アメノミナカヌシ・カミムスビ)のうちのアメノミナカヌシ、三貴神(アマテラス・ツクヨミ・スサノオ)のうちツクヨミ、天孫ニニギノミコトとコノハナサクヤの間に生まれた三神(ホデリ・ホスセリ・ホオリ)のうちのホスセリ、どれも重要な転換点で登場する三神のうち中心の一神についてほとんど何も語られない無為の神であることを指摘しました。
この一見何もしていないように見える無為の神が中心に存在していることで、全体を構成する個々の神々の間に微妙なバランスが保たれているとし、この特徴を日本神話の『中空均衡構造』と呼びました。
何かを中心におくように見えながら、次にはそれと対立するものによってバランスを回復し、中心の空性を守るというゆりもどしの現象が日本神話には繰り返し生じており、それが日本文化の心の在り方に大きく関係していると指摘されています。
中心に空性があることによって周囲にあるものを相対化しているようで、いわゆる、和の精神というのを構造化したものという認識でいいかと思います。
(直接関係があるわけではないですがこの太極図が『中空均衡構造』のイメージと非常に近いと思います。ポールダンスのスピンを上から見るとちょうどこんな感じですね。)
『中空均衡構造』の具体例として、神社における中心の御神体は依り代であり、神が訪れるとされる場所でそれそのものは全くの空っぽです。よく祀られる神鏡などはまさに中心の空性そのものでしょう。ほかにも、天皇は日本の中心的存在にも関わらず実権は持ちません。天皇の語源は中国の道教における北極星を神格化した神の名前から来ていますが、同様に日本神話における無為の神であるアメノミナカヌシも北極星を神格化した神と考えられておりこの点からも北極星=ポール=中空性の関係が見てとれます。
また、『中空均衡構造』は、ユダヤ・キリスト教などの一神教における『中心統合構造』と対比され、『中心統合構造』では、善悪が明確であり中心を巡り対立が起こる一方、『中空均衡構造』では、善悪は不明確であり全体の調和が優先されるとされています。
結果、対立するものや矛盾するものを敢えて排除せず、曖昧なまま共存させることができ、漢字から生まれた仮名、神道と仏教を合わせた神仏習合など外来文化を日本独自に解釈しながら取り込むことができたのも『中空均衡構造』がゆえだと考えることができます。
当然デメリットもあり、上手く機能していないときは、責任の所在が曖昧であるがゆえの無責任体質、調和を求めるがゆえに出る杭を叩く、中心がないゆえに従属的で権力者の顔色を伺うといったことが起こると考えられます。
『中空均衡構造』はあくまで日本神話の一つの解釈ではありますが、これを用いれば日本人の特徴と呼ばれるようなものの多くを説明できるように思いますし、実際に納得感があるのではないでしょうか。
中空均衡構造と悟り
さて、そんな『中空均衡構造』ですが、なぜこのような心性を持つようになったか考えてみると、それは日本特有の自然にあるように思われます。
古来の日本を考えてみると、温暖で四季があり海山川と自然の恵み豊かである一方、地震、台風、火山噴火など人々からすれば人知を越えた天災が身近にあったことでしょう。
そうした自然の力の大きさから、自然の中の万物に神(精霊)を感じ、自然に逆らわず人と自然が一体であるという日本文化的なアニミズムが生まれたのだと思われます。
『中空均衡構造』にみられる対立概念を曖昧なままにしておくという性質は、自然そのものが善悪明確に区別ができるようなものではなく、多くの恵みをもたらすと同時に大きな脅威でもあった点から、曖昧なままバランスをとることは日本を生きる上で必要不可欠なものであったと考えられます。
また、自然と一体であるという感覚は、仏教でいうところ悟りにあたる無常・無我、空の思想に近く。自己は常に自然(世界)との関係の中で存在するものであり、そこに明確な自己は存在しないという思想が自然と生まれていたのではないかと考えることできます。
『中空均衡構造』持つ中空とこの悟りにおける空は、どちらも中心が無為という点で似たようなものに見えます。
つまり、中空均衡構造の本質は、日本古来からの自然観にあり、その在り方は現代で言うところの無為自然な悟りの境地に等しいものであったのではないでしょうか。
そのように考えると、ノアのショーで悟りの世界とポールダンス×日舞の融和が合わせて描かれたことも合点がいくのではないでしょうか。
「自分がない」ということ
「自分がない」というノアの中心には無為のポールがあると考えるとノアのポールダンスショーの意味がより鮮明に見えてきます。
ノアのショーではステージ中心にあるポールに特に意味付けはされてなく、むしろその外にある扇子のほうが北極星(ポールスター)として中心性を発揮しているように見え、ポールはまさしく無為の中心として配置されていることが分かります。そして、調和の象徴である扇子がノアにキャッチされポールの周りをクルクルとまわるのも中空性の表現に思われます。
このことから、ノアのポールダンスそのものが日本文化の中空均衡構造を表していて、中心に無為のポールがあることによって、ポールダンスと日舞の調和が保たれていると考えることができます。
他にも、ノアのショーではサクラ、扇子、着物と全体が調和しているところもそうです。自分がないからこそ周囲を立たせ全体を調和させることができるのです。
ノアの瞳がオッドアイなのもそういった二元論を調和する象徴であることを意味しているのでしょう。
こうやって見てみると「自分がない」というのが悩みというノアですが、本当はそれこそが真に重要なものであったことが分かります。
「自分がない」からポールダンスと日舞を融和し、「自分がない」から自然と調和し、「自分がない」からありのままを生きることができ、「自分がない」から苦しみの世界から抜け出すことができるのです。
現代の日本では「自分がない」ということはほぼ否定的な意味で使われます。しかし、「自分がない」ということこそ本当に大事にしなければいけない心の芯なのではないでしょうか。
明治維新以後の近代化で流入した欧米文化による混乱が今なお続く現代の日本において、ノアのポールダンスショーはまさにノアの箱舟のごとく、苦しみの世界から抜け出すための助けになるのではないかとそう感じました。
ポールダンスの新たな可能性
最後にポールダンスの新たな可能性についてです。
これまでポールダンスはセクシャルな文脈での物語として見られることが多かったようです。摩擦を生み出すための露出の多い衣装や、ポールを男性器に見立てることでポールダンスの独自性を発揮してきたからのように思われます。
一方で近年は、芸術やスポーツやエクササイズとしてポールダンスとして発展しつつもあります。しかし、それらにはポールダンスとしての独自性はあまり高くないように思われます。
ポールプリンセスでは、新たにポールダンスのポールを心の芯として見立て、そこに神や仏の世界や日本人の心の在り方までもを映しだします。心の芯という表現は、不変不動のポールを持つポールダンスだからこそできる物語であり、ポールダンスの独自性と呼べるでしょう。
また、このポールを心の芯として見る考え方は万物に精霊が宿り、自然と人とが一体であるといういわゆる日本のアニミズム的な解釈となります。ある意味では外来文化の日本的再解釈ともとらえることができるでしょう。
こうして描かれた、ポールプリンセスのセクシャルなだけではないポールダンスの物語はポールダンスの世界に新たな可能性を見せてくれるのではないかとそんな風に感じます。
おわり
ここまで色々と見てきてごちゃごちゃと分かりづらい点も多々あったかと思いますが、とにかく、ポールプリンセスってなんかとんでもなく凄い作品なんだということだけでも感じ取っていただけていると幸いです。
ノアのポールダンスショーは単に和風のモチーフのポールダンスショーで片付けてしまうにはあまりにも勿体なく、ぜひ本考察と合わせてそこに込められた日本文化の心の在り方を感じていただければと思います。
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