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【だれもが避けて通れない】人が亡くなる、ということ【なのに字幕からも消される】

いま、YouTubeの制作現場にかかわっているんだけど、「話す」ことはある程度できるけど、字幕にするとき「死」という文字は出さないことになっている。だから、「〇」にしたり「シ」ってカタカナにしたり。最近では「戦争」の字幕さえ出せなくなり、これまた「〇〇」にしていたりする(驚)

どうしてこんなに「死ぬこと」にセンシティブなんだろう。
人は生まれたら必ず死ぬのに。

社会が文明化され、「死」が身近なところから切り取られている気がする。
病院で亡くなることが多い。お葬式に参列しても、きれいにお化粧されて生きているときよりもきれいな故人のお顔を、棺の小さな窓からちらと見るだけ。祖父母の場合はそうだった。それでも、非日常の最たるものみたいに、なんと表現したらいいのかよくわからない、不可思議な感覚だった記憶がある。

もともと「誕生」も「亡くなること」も身近にあったはず。昔は、自宅で生まれ、自宅で親族に見守られながら亡くなっていった。なのに、いま、どうしてこうも「死」は日常から切り離されなくてはならないんだろう。YouTubeで「死」という字幕がつけてはならないくらいに。

以前、子どもの小学校の読み聞かせをしていたときに出会った本。

家でなくなるおばあちゃんを看取る、実録の写真絵本。身近にあるはずのことなのに切り離されてしまっているから、こうして絵本で見るだけでも、大切なことだなと思った。

けど。

やっぱりたくさんの子どもたちが在籍する「クラス」で読み聞かせするのははばかられて、結局、自分の子どもたちに見せただけにとどまった。

「大切なこと」と言いつつ、それでも読み聞かせもできなかった。死を「タブー視」するなにかが、わたしのなか、いや、多くの人たちの中にいる。

それでも、今月なぜかワタシは、前記事に書いたように26歳で「すべてやり切って」自死した女性の顔を眺め、一昨日「生きたひ」という看取りをテーマとした自主上映の映画を2回目に観る機会があり、そして今週末には父の七回忌。

人は生まれたら必ず死ぬ。忌み嫌うのではなく、ただ受け入れていく。そして自分事としてとらえていく。きっと、そういう機会なんだろうなと思い、少しずつわたしの看取り経験など、綴っていくことにした。




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