射手座と水瓶座は似ているか(2)──射手座はなぜ哲学的といわれるか

前回は、射手座と水瓶座が似てるって言われる内実を探りたいという話をして、まずは射手座と哲学の関係を探ってみようと言った。

1.射手座=「哲学」?

そもそも、なぜ射手座って哲学と結び付けられるんだろうか? ツイートの中には学問としての哲学はちょっと……と書いている射手座の人もいる。
わたしはそれを見て、「哲学的」=「思想が好き」「考えることが好き」とは言えるのではないか、しかしそれはいわゆる学問の「哲学」とは違う、と書いた。考えることは哲学だ……というと確かにその通りだけど、でも全ての考えが哲学ではない。「晩ごはん何食べよう」は考えだけど哲学じゃない。

なので、まずここでいう哲学とは何かを明らかにしたい。石井ゆかりさんは「抽象性」「高いところから見下ろすこと」に答えを求めていたけれど、それって哲学だけじゃないので、なかなか答えが出なくて一人でうんうん唸っていた。んだだけど、実は最近、しっくり来る文を見つけた(持つべきものは本)。

2.「哲学」とは?──ヤスパースとその解釈

以下はヤスパースという論者の「哲学入門」による。解釈は山口尚さんのこれに基づく。

ヤスパース本人は、哲学に普遍的妥当性はないとする。したがって進歩発達という発想もない。この点で、普遍的妥当性と進歩の概念がある科学とはすでに異なっている、という。「哲学は人間がめざめるときに生まれ、それゆえに科学に先立つ」と。

ヤスパースにとっての哲学は、人間がめざめるとき(動物的状態を脱するとき)に生まれるものなので、人間が人間である限り哲学と不可分である、ということになる。このような哲学の本質は、「途上にあること」だという。

山口さんは、普遍的妥当性がないことを積極的な意味として受け止めて、「哲学は〈途上にあること〉であるので、哲学は収斂を目標とも理想ともしません」と書くし、進歩の概念がないことも積極的に意味付けができるとして、「そのつど『あらためて』行なうことが哲学という営みの核心部にあ」るという。

ヤスパースについては以上。哲学は人間につきまとうもので、そこで「行われる」ものなので、結論は収束しないし、常に発展途上である。むしろ、どこかを目指し続けることに意味がある、とまとめることができる。

3.射手座とヤスパースの哲学観

確かに、頭一つあれば考える事自体はできる。一方で科学は普遍的な基準を必要とするので、その普遍的な基準を担保するものがなければ推し進めることができない。さらに、その基準が新たな新事実の発見によって誤っていることが判明する、こともある(例えば天動説と地動説)。


おそらく射手座の哲学は古くは「神学」に象徴されるのかなと思う。まあ中世の大学には医学も哲学もありますが、いわゆる「高等教育」のこと。高等教育は今でも限られた人がやるものだし、星座の解釈が成立した頃はなおさらそうだったのではないか。
これは魚座の宗教とは違う。魚座の宗教はあらかじめ全てが神と合一なのだけど、射手座の「宗教」というのは、自分から神の領域に赴くこと(支配部位は太もも)。つまり「天に向かう意志」のこと。決して答えのない謎。強いて言うなら、自分がそこに向かおうとすることだけが答えである。こう解釈するなら、たしかに射手座は哲学的といってよい。旅を面白がれる星座でもあるし。

しかし、「人間は人間である限り哲学に関わる」──この文の前半に着目するならば、やはり水瓶座とも関係があるのではないか、とも思われる。次回は対比のため、水瓶と哲学の関係にフォーカスする。

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