どこまでが私か?(2)──8室、境界の一時的な消失

前回は準備運動として、私が考える7室について記述した。これで、8室を説明する準備ができた。

2.1. 生きれば生きるほど純粋な私ではなくなる

ところで、「どこまでが私なんだろう」と考えたことはないですか?ないか。ない人は以下を読んでください(ゴリ押し)。

7室で誰かと出会って、誰かと親しく付き合ったとき、その人の癖がうつったり、話し方がうつったり、考え方がうつったりすることはよくある。親しくなければ反面教師にしようとするかもしれない。どのみち、相手からの影響を強く受けることになる。

そうすると私たちは、この世に生まれたときよりは、ある意味では自分ではなくなるわけだ。私たちはなぜか、このプロセスを繰り返しながら、(それにもかかわらず逆説的に)自分を形成していくことになる。

そう、この「自分ではなくなる」──これこそが8室の象意だ。
境界をなくす、とよく記述があるけれど、一時的に境界がなくなること……もしこれが生死の境界であるなら死ぬことだし、もし体の境界なら性交を示すことになる。小さな死とは言い得て妙だ(※フランス語で「絶頂」はla petite mort: 小さな死と呼ぶ)。
職人が師の技術を見て盗むこと、これなんかは8室の水星と土星的だ(ちなみに私の配置はこれ)。師との境界をなくすことで、その技術を取り込む、がその指し示すことになる。
他にも、大自然の中に隠居するとかも8室の中に入る。つまり、もっと抽象化すると「より大きなものの中」にいることを示す。

2.2. それでもなぜ自分でいられるか?──境界の作用

私たちはたとえ自然の中で修行をしたところで、完全に自然と合一するわけではない。ほとんどの人は(即身成仏を除く)、現世に帰ってくるはず。……修行の中で得た経験や、ときどき悟りさえ持って。私の中にある限り、その経験は私のものであり、私の糧になる。


しかし、それは境界をそれでも私たちが保持できているからであって、完全に境界が消失したからではない。完全に境界が消失していたら、自我もなくなっているはずだ(cf. 『エヴァンゲリオン』で出てくる、人間を一つの存在にしようとする人類補完計画。庵野監督のキロンは魚座にある)。
もちろん相手もいなくなっているから、そもそも相手に渡す、という行為自体が成立しなくなる。

では、その境界って私たちが思っているほど強固なものなんだろうか? むしろゆらぎながら存在しているものではないか? というのが次の話。

(ええっと、今のところ哲学の文献がまったく登場しませんが、このあたりは文献がどうというよりは直観的にそうだと感じられる、くらいを根拠にしていますのでご勘弁を……今この文章ではこのあたりのことを所与のこととしておきます。なのであんまり掘り下げて書けていません。もし何か議論があったら教えて下さい(私が知らないだけであると思うんだよな)。)


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