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短編小説/花火とチョコレート

第230回 オレンジ文庫 短編小説新人賞の「もう一歩の作品」です。

バイト先の好きな人がある日突然バイトを辞めた。もう想いは届かないと思っていたところ、彼から連絡が来て。大学生の幼い恋心を描いた作品。

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 目で追うようになったら、それは恋の始まりなのだと思う。
 雨の日でもバイト先に行く足取りが軽いのは、彼に会うのが楽しみだからだ。大学の講義が終わり、傘をさして駅に向かって歩いていく。
 もう梅雨入りしたのだろうか、少し肌寒い。雨雲が夕闇に溶けて、濡れたアスファルトが街灯の光を反射させている。靴を濡らしながら賑やかになる駅前の通りを徐々に抜けると、私がバイトしている喫茶店が見えた。
 十五人くらいが入れて、夜の十一時まで開いている。お酒も飲めるしご飯も食べられる。お店のショーウインドウにはいつも手作りのお菓子が宝石みたいに並べられていて、働いていると心が豊かになれる気がしている。
 店に入るなり、無意識にキッチンへと目が移る。彼の姿を目に入れたくて、胸が弾むのを感じた。
 キッチンには小太り中年女性の店長がたった一人。慌ただしく、これから焼くスコーンに卵黄を塗っていた。期待一杯に膨らませた気持ちが一気に萎れる。いつも火曜日のこの時間にはいるはずなのに、なぜだろう。風邪かな。
 クリクリのぱっちり二重の優しい眼差し。サラサラで艶々な黒いマッシュヘア。私が挨拶すると、顔をくしゃっとして可愛い笑顔で返事をしてくれる彼の姿を恋しく思う。
「おはようございます」
 店長と目が合ったので挨拶する。
「おはよー、雨どう? 酷くなりそ?」
「どうでしょう。霧雨っぽいので、これから上がるかもです」
 そう言うと店長はホッとした顔で微笑んだ。更衣室に荷物を置き、制服に着替えてからレジカウンターに入る。雨のせいかお客さんは少ない。
 交代で退勤する梨花さんから申し送りを受ける。赤ちゃん連れのグループは何時に入ったから、何時には帰ってもらって。本を読んでいる人は何時、パソコンの人は何時。入口の花瓶の水をかえられなかったからかえておいて。それから野宮君が辞めたから、手が空いていたらキッチンも手伝って。
 ちょっと待って。
「野宮君、辞めたんですか?」
 心臓が止まるかと思った。手から嫌な汗がじわりと滲む。
「そうらしいのよ。あんまり急だから店長も困ってるみたい」
「そう、ですか」
 動揺しちゃダメだ。顔がカチカチに固まって、表情が死んでいくのがわかる。どうして。なんでなんで。辞めるなんて素振り、全然なかった。彼はいつだって楽しそうに働いていた。
「すぐ新しいバイトの子が入るか分からないし、しばらく火曜の夜は忙しくなると思うわ」
 梨花さんの言葉が頭に入らず、消え入りそうな声ではいと答えるしかなかった。
「ちょっと、お葬式みたいになってるわよ!」
 梨花さんが私の両肩をポンポンと優しく叩く。涙は出ていないのだけれども、私は今にも泣きそうな顔をしていたのかもしれない。
「大丈夫よ、若いんだから、まだまだ出会いなんていくらでもあるわよ」
 私の心を見透かしたように、梨花さんが言う。私はそんなんじゃないですよ、なんて気持ちを誤魔化しながら苦笑いを作る。梨花さんは、あらそうなの、とおどけた後にじゃあ帰るねと言って更衣室に入って行った。
 いつから彼を好きになったか分からない。大学に入学してすぐにここでバイトを始めて、同じ曜日のシフトで入ることが多かった。いつもニコニコして、機嫌が良くて、一緒にいると私も明るくなるような子だった。製菓学校に通いながらバイトをしている子で、将来はパティシエになるんだって嬉しそうに話していた。夢を語る彼の瞳はキラキラと輝いていて、その光の中で自分自身も浄化されるような力を持っていた。
 五月に入って、なんとなく気分を変えてみようと、いつもメガネだったのをコンタクトにしてバイトに来てみたことがあった。その時に彼から「べっぴんさんですね」なんて言われたのがすごく嬉しくて、勘違いかもしれないけれども、その一言から私は恋に落ちたのかもしれない。
 チリンチリンと、お店のドアベルが揺れる。梨花さんが帰っていく。雨足は予想を裏切って強くなり、開いたドアからしっとりした雨音が耳についた。店長と二人きりでお店を守る夜の時間はなかなか進まず、立ちっぱなしなのはいつもと変わらないのに、酷く疲れてしまった。
 
 夜の雨はとても綺麗だ。全ての悪いことを優しく洗い流してくれるような気がする。傘で小さな雨粒を受け止めながら、バイト帰りの道を一人歩いていく。
 もう、彼とは会うこともないんだろうな。
 連絡先は知っているけど、ご飯を食べに行こうとか、遊びに行こうとか、そういう仲までは進展していない。ただのバイト仲間。バイトという縁がなくなってしまえば、もう会う理由もない。
 雨で靴が完全に濡れて、足先から体が冷えていく。自宅に戻るとすぐにお風呂にお湯を溜める。ちゃんと体を温めないと風邪をひいてしまいそうだ。ラベンダーの香りがするバスソルトを浴槽に入れて、沈んだ気持ちを和らげる。
 浴室のライトのスイッチはつけない。真っ暗なお風呂に浸かるのが好きだ。冷え切った体がお湯に触れて徐々に温まっていく。
 涙は出ない。
 自分に何ができただろう。
 例えば二人きりで外出しようとか。口実を上手く作ることができず、ただ彼を眺めているだけで満足していた自分がいた。バイト仲間同士の飲み会で一回だけ一緒にご飯を食べたことはあったけれど、彼を目の前にすると緊張して何を喋ったかも覚えていない。
 エプロン姿で無邪気に笑う彼の姿が脳裏に蘇る。とにかく、もう彼の笑顔を見られないことが悔やまれてならなかった。
 体が十分に温まって、お湯の温度が下がっていく。もう日付も変わった。早く寝よう。温かいシャワーを浴びる。胸の底にこびりついた寂しさも一緒に流してしまいたかった。
 お風呂から上がると雨の音は静かになっており、ひんやりとした布団の上にほてった体を沈めてみる。猛烈な疲労感で意識が遠のき、服を着ないまま、髪の毛も乾かさないまま布団に包まった。
 
「大丈夫ですか? 顔色悪いですよ?」
 先生から突然声をかけられて我に返る。フランス語の授業の問題演習中、集中できずにボーッとしていた。
 朝は寝過ごして時間がなかったので、髪の毛はボサボサ、ノーメイク眼鏡のまま。その上、半分寝巻きみたいな格好で講義に滑り込んだ。自宅アパートから大学まで歩いて十五分の距離を力の限り走り抜けただけで、一日に必要なエネルギーを全て消耗してしまった気がする。
「大丈夫です、すみません」
 私は先生にそう言って問題に意識を戻す。語学の授業は朝から二コマ続いているので体力がいる。
「佐伯さんは発音が本当に綺麗ですね」
 先生に褒められても嬉しくはない。中学三年間、親の仕事の都合でパリにいたから発音だけには自信がある。日常会話レベルなら問題ないけども、せっかく身につけたフランス語を忘れたくなくて上級フランス語を履修した。日本に帰ってから使う機会が本当にないから困ったものだ。
 綺麗な二重瞼。艶々の黒いマッシュヘア。笑顔がとにかく可愛かった。彼のことを忘れようとすればするほど心の中で彼の姿が色濃くフラッシュバックした。
 もう会えないだろう。そんなことは分かっている。でも連絡先を知っているのだから、何かしらアプローチはできるはずだ。
 ご飯に誘う? どうやって? バイトを辞めたお別れ会? それじゃ二人きりで会えない。バイト仲間たちで企画する案件だ。
 遊びに誘う? どこに? 彼が何を好きか知らないのに? 本当に手の打ちようがないことに改めて気がつき絶望する。
 集中できないまま時間は流れていって、講義の終わりに慌てて課題の内容をノートに書き写す。朝ご飯を食べていないので、空腹で気持ちが悪い。早足で学食に向かい、温かいきつねうどんを注文する。
 席を確保して座ると、カバンの中でスマホが震えたので取り出し画面を見る。
「え、うそ」
 思わず声がうわずる。
 彼からメッセージが来ている。
 心臓が急激に高鳴り、瞳孔が一気に開く。体温が瞬間的に上昇し、手汗がじんわりとした。バクバク拍動する心臓の音を聞きながらメッセージを開く。
【佐伯さん、急で申し訳ないのですが相談に乗って欲しいことがあります。できるだけ早めに会って話したいのですが、もしよければ都合の良い日時を教えてください】
 その後に白い猫がお辞儀しているスタンプが押してある。
 なんだかわからないけど、彼が私に会いたいと思ってくれたことが嬉しくて、昨日は流れなかったはずの涙がほろりとこぼれてきた。
 彼からメッセージが来て、胸のドキドキが最高潮に達した時に返信した。すぐに返信しなければメッセージが消えてしまいそうな気がした。
【早ければ今日の夜にでも。あとは今週中だったら木曜と土曜以外の夜だったらいつでも大丈夫です! 場所はどこでも行きますよ】
 気持ちがはやっているのがわかる。返信してすぐに、既読になるまでのほんの数分、スマホに齧り付いてずっと見つめていた。
 彼からの返信は早くて、会うのは今日の夜になった。場所は駅前の大手チェーンの喫茶店。午後の講義は途中でサボって家に帰り、シャワーを浴び直す。ヘアメイクから気合いを入れて顔を作った。ちゃんとコンタクトを入れて、しっかりアイラインを引いて、ビューラーでまつ毛をカールさせてから丁寧にマスカラを塗る。
 バイト以外で会った私を可愛いって思って欲しい。服はどうしよう。やっぱりワンピースかな。お気に入りのライトグレーのAラインワンピースを出して、姿見で何度も自分の姿を確認する。
 相談したいことってなんだろう。そもそも何でバイトを突然辞めたのだろう。
 
 雨はすっかり上がって、ほのかに湿ったアスファルトを踏みながら約束の喫茶店まで歩いて行く。まだ湿り気のある風が柔らかく吹いて、駅前のお惣菜屋さんから揚げ油の匂いが漂ってくる。
 気持ちがはやりすぎて、約束の三十分前には指定の喫茶店に着いてしまい席を確保した。窓際の席に座り、彼を待つ。アイスコーヒーのグラスに水滴が溜まってくる。約束の六時に近づくにつれ、鼓動が早くなる。
 五分前になっても彼は現れない。LINEで【早く着いてしまったので、先に待ってます。窓際の席です】とメッセージを送る。既読がつかないまま時間は過ぎて、六時になっても彼の姿は見えなかった。
 メッセージを見直して、約束は今日の六時だと確認し、寄せてくる不安な気持ちを振り払おうとした。スマホをじっと見つめて、彼にメッセージを入れようか、送るならどんな内容が良いか悩み始める。意識が完全にスマホに吸い込まれた時だった。
「すみません、電車が少し遅れて」
 明るい光がさすような声が聞こえた。顔を見上げると、綺麗な二重瞼の眼差しと整った鼻筋につい見惚れてしまう。彼が視界に入った瞬間から、脳内から全身に幸せホルモンがドバッと分泌された感じがわかる。
 彼はアイスコーヒーのグラスをトレーに抱えていて、私の向かいの席に座った。向かい合った瞬間に、思わず照れて笑顔が自然にこぼれてくる。
「全然大丈夫です。それよりどうしたんですか? バイト辞めたの本当に突然だったからびっくりして」
 言った瞬間に直線的に聞き過ぎたかなと後悔する。もっと他に言う事なかったかな。久しぶりってわけでもなかったし。
「すみません、迷惑かけちゃって。今日の相談とも関連していて、厚かましい相談なので、嫌だったら断ってください」
「いえ、私にできることだったらなんでも」
 そう言うと彼はニコリと笑って話を続けた。
「実は八月からフランスで働くことになって、渡航準備でバイトを辞めたんです」
 小さな卵が一つ。胸の奥でぐしゃっと握りつぶされたような衝撃を感じた。浮かれた気持ちが一思いになくなった。
「学校を卒業したらフランスで修行しようと思ってたんですけど、尊敬している職人さんのお店の求人が出てて、ダメ元で申し込んだら合格したんです」
「そ、そう。すごい、おめでとうございます!」
 息をのみながら祝福する。彼の夢が叶ったんだ。パティシエになりたいって、ずっと言ってた。祝福しないわけがない。でも、急に真っ暗な穴の中に突き落とされたようで心が追いつかなかった。息が苦しかった。
「いつかフランスには行くんだって思って、フランス語は独学で頑張ってたんですけど、いざ行くことになったら全然足らないなって不安になってしまって」
 彼は申し訳なさそうに私の瞳を見つめる。
「佐伯さん、フランスからの帰国子女って言ってたじゃないですか。そんなにお礼は支払えないんですけど、渡航までの二ヶ月の間にフランス語を教えていただければと思いまして」
 私に興味があったわけじゃない。浮かれて精一杯のオシャレをしてきた自分が滑稽だった。それでも私を求めてくれたこと、その事実は素直に嬉しかった。彼と少しでも関われること、そのチャンスがあることを考えれば、断る理由はなかった。
「お礼なんていいですよ。帰国子女って言っても、中学の三年間だけなんです。大した語学力じゃないし、帰国してからはしばらく使っていないから日常会話くらいしかできないんですよ。大学でもフランス語の授業をとってるくらいで、自分にとってもフランス語のリハビリになると思うので、本当にお礼はいらないです」
「そんな、悪いですよ」
「それじゃあ、野宮君の手作りお菓子とか、野宮君のお勧めのお店のお菓子とか、そういうのを頂けたら嬉しいです」
 気持ちを持ち直して、彼に提案する。彼とのやりとりの中でお金が発生するのが嫌だった。
 彼は申し訳なさそうな顔をして、しばらく考えた後にこう言った。
「ありがとうございます。助かります」
 彼が目尻に皺が入るくらいクシャっとした笑顔を作ってくれる。目が眩んでしまうくらいで、私の心がくまなく照らされる。あとたった二ヶ月で日本からいなくなってしまうなんて嘘のようだった。いつまでも彼の輝きの中に一緒にいたいと思った。
 冷たいコーヒーを飲みながら、どれくらいの頻度で、どのように教えるかを話し合った。私のバイトが入っている日を除いた週四回、一回一時間、寝る前の十時から開始、LINEのビデオ通話で。初回は金曜日の夜から。週四回も彼と通話できる。それだけで体温が上昇していくのがわかる。
「Pendant combien d'années avez-vous étudié le français ?」
 気分が高揚して、フランス語で話しかけてみた。
「え? もう一度言ってください」
 突然だったので彼は動揺している。慌てる姿がまた可愛かった。
「独学でどれくらいフランス語を勉強したのかなって、言ったんですけど」
 私がそう言うと、まだ一年くらいだったことがわかる。自分でテキストを買って、学習アプリを色々と試してきたらしい。最近はAIがすごいんですよ、と彼は目を大きくして私に説明した。でも、やっぱりちゃんと喋れる人に教わるのが一番良いんですよね、と気恥ずかしそうに笑い、ではよろしくお願いします、なんて頭を下げてくれる。
 用件が済んで、話題が尽きたところで、彼は「じゃあ明後日の十時にお待ちしてます」と言いながら立ち上がり、私に向かって微笑んだ。私も一緒になって立ち上がり、彼の笑顔を追うようにして一緒にお店を出る。ではまた、と駅の方向に向かっていく彼を目で追いながら体の中心がほかほかと温まっている感じがした。
 
 雨が降っていた。自宅の窓の外から、濡れた道路を走る車の音が断続的に聞こえてくる。机に向かい、初めてのレッスンに向けて電子書籍で買ったパティシエをテーマにしたフランス語の小説に目を通す。日常会話は独学でなんとかやってこられたけれども、職場で使う言葉については、独学ではどうしようもないと彼が言っていた。私もお菓子作りについてのフランス語はあまり詳しくないので念入りに予習する。
 約束の時間が近づくにつれて血の巡りがよくなるようで、彼にフランス語を教えることが本当に楽しみな自分を見つける。それと同時に、あと二ヶ月したら彼が日本からいなくなると思うと、寂しくて泣いてしまいそうだった。
 少しでも仲良くなれたら良いじゃないか。
 フランスに行ったって、今はネットで繋がっていつだって連絡は取れる世の中だ。ただのバイト仲間だったのが、仲の良いお友達になれるチャンスが来ただけなんだ。できたら彼女になりたいけども、それはとても難しいような気がした。彼との距離感は遥か遠く、まだ彼について何も知らない事実に、たった二ヶ月間で彼の大切な人になれる自信なんて到底見つけられなかった。
 約束の時間になったので自分からLINEでビデオ通話のボタンを押す。
「Bonsoir, comment allez-vous ?」
 スマホの画面に彼が映って、胸がときめく。いつもの優しい笑顔だ。早速フランス語で元気ですか? と聞いてみた。
「Je vais bien, merci」
 元気です、ありがとうと簡単に答える彼。緊張する、と彼はフランス語で続け、今日のテーマを確認する。
「今日はトリュフの作り方を僕が説明するので、それをフランス語に訳して、僕に教えてください。僕は訳していただいた言葉を反復するので、発音を直していただけると嬉しいです」
 彼は仕事に対して本当にストイックだった。フランス語が未熟なことでミスをしたら大変だからと、仕事で使いそうな言葉を自発的に提案し、私に教えを求めてきた。私との関係には全く興味ない様子で純粋にフランス語の習得に集中していた。
 週四回、一回一時間。一週、二週、三週と私たちのレッスンの時間が過ぎて行く。梅雨も明けて急激な温度の上昇に体力が追いつかなかったりするが、夜は彼とのレッスンがあると思うと途端に元気になる自分がいた。
「そういえば同い年だし、敬語やめませんか?」
 レッスンの期間が半分を過ぎた頃で、彼にそう提案してみた。少しでも彼に近づきたい気持ちだった。
「そうですね、僕にとっては先生なので敬語じゃないとちょっと申し訳ない感じがしますけど」
「気にしないでよ。私も楽しくやってるから」
「うん、じゃあちょっとずつ」
 すぐにはできないかもしれないど、と彼は言いながら照れて笑っていた。
 レッスンが日常化し、夏らしい暑い日が続く中、彼がフランスへ旅立つ日が近づいていく。お互いに敬語をやめてからしばらくすると、レッスンの終わりに日本語で雑談をするようになっていた。
 彼は幼稚園の頃からお菓子屋さんになりたくて、気持ちが変わらないまま成長したとか、運動は好きで小中高はバスケをやっていたとか、好きなアニメはジブリだとか。彼は彼について様々なことを教えてくれた。
「佐伯さんと話してるとホッとするよ」
 ふとした瞬間に彼がそう言った時、彼と友達になれたんだと自分の淡い希望が叶ったような気がした。
「フランスに行っても、時々連絡しても良い?」
 私がそう言うと、彼は「もちろん」といつもの青空みたいな笑顔で返してくれた。ただのバイト仲間から友達になれた。それだけでも私は満足だったはずなのに、あともう少し彼の側に近づきたくなり、胸が締め付けられるようだった。

「佐伯さん、本当にありがとう。レッスンも今日で終わりになるけど、ちゃんとお礼したいから来週の火曜日の夜に時間って作れるかな?」
 レッスンの最終日に彼が提案した。
 ああ、本当にもう終わっちゃうんだ。
 この二ヶ月間は信じられない程あっという間で、線香花火が消えていくような寂しい気持ちで胸がいっぱいになった。火曜日はバイトだったけど、店長に謝って出られないと言っておこう。
「火曜日、大丈夫だよ」
 画面越しに笑顔を作る。
「夕飯ご馳走するから駅前に六時に集合ってどう?」
「うん、大丈夫」
 そう言うと、彼は真剣な眼差しで私を見つめてこう言った。
「ありがとう。好きなお菓子ってある?」
「チョコレート! チョコレートが好きかな」
 お礼に彼の手作りお菓子を作ってもらう約束をしたような気がする。彼とのレッスンで沢山の種類のお菓子の作り方を知って、あまり難しいお菓子を頼んではいけないように思えた。いや、チョコレートも自分が考えていたほど簡単ではないのだけれども、彼に作ってもらうならチョコレートと決めていた。もちろん自分が好きだということもあったのだけども、好きな人からチョコレートをもらうのはバレンタインじゃないけれども、とても特別な気持ちがするから。
「いいよ。俺チョコレートは結構得意だよ。楽しみにしといて」
 得意気な顔で微笑む彼が愛しくて、心がほんのりと温かくなる。
「あれ、来週の火曜日って花火大会じゃない?」
 私はふと気づいて彼に言った。
「うん、佐伯さんがよければ、ご飯食べてから堤防まで見に行けないかな。しばらく日本に帰れないから、花火を見ておきたいんだ」
 私と?
 思考が追いつかず、瞬間的に頭が沸騰したかのように視界が真っ白になる。
「え? 良いの? 彼女さんとかと一緒じゃなくて良いの?」
 思わず飛び出す自分の言葉に自分でびっくりしてしまう。もう言葉は返ってこない。
「彼女いないよ? 学校の友達も、フランスに行くって言ったら距離置かれちゃったし。人間関係って難しいよね」
 彼がそういうとしばらく沈黙が生まれて、どことなく気まずい雰囲気になった。
「もしかして人混みとか苦手?」
 彼が心配そうに訊く。
「ううん、全然大丈夫! ちょっとびっくりしただけだったから。野宮君が良いなら、一緒に花火に行くのすごく楽しみだよ」
 動揺を全力で隠しながらそう答える。
 彼とデートだ。
 完全に舞い上がった心が空まで飛んでいき、空中で分解してしまいそうだった。今彼女がいない事実も今更ながら嬉しくて、もう付き合っているような錯覚さえした。
「じゃあ、おやすみ」
 と彼が言って画面から消えると、私はほてった頬をベッドの布団に勢いよく押し付け、言葉にならない叫び声を上げた。
 
 楽しみにしていた花火の日は朝から小雨が降っており、中止が危ぶまれた。天気予報で雨が降ることは知っていたけれども、やはり雨が降っているのを朝確認すると、虚脱感で体がだるかった。お昼を過ぎて三時ごろになって、今日は花火を決行する事が区の公式ページで発表された。
 大学の講義が終わり、花火を前にだいぶ浮ついた街並みを抜けて自宅に戻り、浴衣に着替える。気合いを入れ過ぎかもしれないと思いながら、YouTubeで着付けの方法を見ながら姿見と格闘する。メイクも濃過ぎず薄過ぎず、ちょうど良い塩梅を目指して色を乗せていく。
 駅に着き、彼を待つ。いつもよりかなり人が多く、何人もの浴衣姿の若い女の子とすれ違った。時間ぴったりになると彼が現れて、私を一目見るなり、「べっぴんさんだねー」と一言。私は照れるのを隠さないまま「ありがと」と返す。
 彼は歩いてすぐだからと、夕飯を食べるお店へと私を案内する。こぢんまりとしたイタリアンで、どこどこのホテルで料理長をしていた人が開業したんだと彼が教えてくれる。
 席に着くと、彼が「二ヶ月間、本当にありがとう。大したお礼じゃないけど、リクエストのチョコレートです」と薄いベージュの紙袋を渡してくれた。
「ありがとう。そんな、私もすごく楽しかったし、全然気にしないで」
 彼の温かな微笑みと眼差しに、胸がふわふわと浮いてしまいそうだった。ここはハンバーグのデミグラが絶品で、本日の鮮魚料理も美味しいけど、遠慮せずに好きなもの頼んでと彼が言う。
 彼と二人で前菜の盛り合わせとハンバーグを頼み、舌鼓を打つ。
「すごく美味しい」
「でしょ?」
 まるで夢の中にいるみたいで幸せだった。花火の時間が近づき、彼が慌ててお会計を済まして堤防に歩いて向かう。歩いて十五分くらいの距離で、履き慣れない下駄ではあっと言う間に鼻緒のところが擦れて痛くなった。痛みを我慢して歩き続ける。彼はゆっくりな私の歩調に合わせて、ぴったりと真横にいて、ちょっと手を伸ばせば腕を組めそうだった。でも、そういう関係じゃない。
 花火が終わったら、告白しよう。
 彼からもらったチョコレートの袋を抱えながら、そう思った。このままもう会えなくなってしまうのは嫌だ。ちゃんと自分の今の気持ちを伝えたい。それって自分本位かな。彼の気持ちを全然無視しているのかな。
 そもそも彼の気持ちは?
 伝えなければ後悔するような気がして、心の中でチリチリと火花が散った。人を好きになるって簡単じゃない。
 堤防にたどり着くと、もう沢山の人で溢れていて、もしまた雨が降っても大丈夫そうな橋の下が人気だった。空気は湿っていて、真夏の夜なのに少し肌寒い。堤防の草むらからは虫の声が聞こえてくる。彼と座る場所を探していると、後ろの方から和楽器のお囃子が聞こえてきた。
 この辺に座ろうか、と橋の下で彼が場所を見つけて小さめのレジャーシートを出してくれた。二、三人用くらいのサイズだったので、二人で座れば肩が触れ合ってしまう。今までで一番近い距離で彼の隣に座っている。胸がドキドキ波打ち過ぎて、頭がのぼせそうだった。
 ヒュるるるる、どん!
 初めの一発目が上がった。オレンジ色の古典的な花火だった。
 どん、どん、どん。ヒュるるる。
 花火が上がるごとに、これが終わったら彼は旅立つのだと思うと涙が滲んできた。
「野宮くん」
 辛抱できなくなり彼に語りかける。彼は私の声に気が付かず、黄金色に眩く夜空を見上げながら、一筋の涙を落としていた。

(了)

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