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ランドセルと給食戦争

小学校に入学した最初の夏休み。
小さなビニールプールに水を張ってもらい3歳年下の弟と水遊びしながら庭を眺めるのが僕は好きだった。

自分の身長よりももっとずっと背の高い向日葵の花は太陽を向いて、葉っぱの上に落ちた花粉までもが黄色く、その下辺りの地面には小さな実を付けたスイカが蔓を伸ばす。これはまだ一学期のうちに僕が自ら種を巻いたものだ。
スーパーで買ってきたスイカを食べた際に種をとっておいて庭に巻いてみたところ、土が良かったのか思いの外スクスク成長して黄色い花を咲かせた後、小さな実を実らせていた。
玄関の脇には終業式の日に学校から持ち帰った朝顔が紫の花を幾つも咲かせいる。夕方になって花が萎んだら摘み取って色水を作ろう。

果てしなく続く青い空とわたあめのようなフワフワの白い雲。
お気に入りのグラスに注いでもらった冷えた麦茶を飲みながら僕は思う。
ずっと夏休みだったらいいのに。
もう少ししたら少しも待ち遠しくなかった二学期が始まってしまう。

憂鬱とまでは言えないものの、二学期が始まることに後ろ向きな思いを抱えている1年生というのは、例えば勉学の進度にやや難を抱えてしまっていたりだとか、ちょっと気の強いワンパクなクラスメイトに物怖じしてしまう気の弱さがあったりだとか、何かと始まったばかりの小学校生活に不安を抱えているケースが多いけれど、ことに僕に関して言うのなら、そういう事情は一切ない。
夏休みとは僕にとって、とにかくあの美味くもなんともない給食とかいう餌を無理に食わされる必要性のない期間であって、それだけで実に身の安全を保証された期間だった。

初めて貰う成績表は体育を除く殆どの教科が『たいへんよくできました』の欄にマルを付けられていたけれど、生活欄のコメントは担任の字で『好き嫌いをなくして給食を残さず食べられるようになりましょう』と書かれていた。
食の好みなんて成長と共に変わるのだから苦手なものは無理して食べなくてもよい、という教育方針で育てられてきた僕は、周りの子供に比べてやや、好き嫌いが多めの傾向にあったけれど、それは偏食と呼べる程でもなく、何より僕の心身の成長は健やかそのものだった。
なので僕としても母としても、好き嫌いなく何でも残さず食べることのメリットが今ひとつ思い浮かばない。

それに僕は生まれてこの方6年、我慢を強いられる事があまり無かったというか、そうする必要に迫られるタイミングが殆ど無かったのだ。
第一子という事もあったせいか否か、何かを欲しがったり我儘を言う隙がないくらい定期的に玩具や塗り絵やパズルを買い与えられきていたし、だからデパートの玩具売り場でひっくり返ってダダをこねるだなんて、同じ子供として少しも共感出来なかった。
おばあちゃんは事ある毎に八王子のそごうに出向いては、中流家庭の子供には相応しくない価格帯の洋服を買い与え続けてくれていたし、そして従姉妹が多かったせいもあり、お下がりを含めてとにかく可愛い服やら読みたい絵本を僕は溢れかえるほど所持していた。
甘い両親の元でストレスフリーで育てられてきた僕にとっては、給食を残さず食べるという実にメリットが見いだせない行為の強要は、人生はじめて突き当たる大きな壁だった。

母は、自身の本心はさておき母親という立場上、一応僕に対して
『給食美味しかった?』
と帰宅した際に尋ねてみてくれたり、献立表を見せながら、
『明日の給食、美味しそうでいいなー。お母さんも食べてみたいなー』
などと何とか6歳児の娘をそそのかそうとしてくれてはいた。だけど僕の心が動くことは少しもなく
まずかったよ、全然美味しくないよ
と実に率直で取り付く島のない感想を述べていた。

冷えて固まったブロック塀のようなむぎ飯も、煮詰まって濁った味噌汁も、ブヨブヨしたこしのないソフト麺も、何故かサラダに入れられ野菜の青臭さが移っているふやけたレーズンも、栄養のバランスを考えた故なのか美味さを一切無視した味付けの肉も魚も、酸化して切り口が茶色く変色したリンゴも、あれもこれもそれも6歳児の胃袋を掴もうという心意気が微塵も感じられないのだ。
とにかく給食が美味くない。週の半分は母のお弁当を食べられた幼稚園に戻りたい。
あんなものを食わさせる為にコチラは1年生なった訳ではない。こんな苦行を再び強いられるくらいなら9月からはランドセルなんて背負わんぞとむくれる僕に母は
『うーん。ゼリーでも食べる?』
と、ぞうさんの型に入ったゼリーを冷蔵庫から取り出して話題を変えた。

さて、いざ迎え撃つは新学期。
この日は始業式と防災訓練を済ませて、夏休みの友やら、殆ど父が作ってくれた工作やらを提出したら、給食を食わずにとっとと帰ってくる事が出来る。
なのでおばあちゃんに買ってもらった真新しい赤のランドセルを背負う僕の足取りはまだまだ軽い。
しかし翌日からは給食がいよいよ再開されてしまう。一学期の間、給食を残さず食べられた日が見事に皆無だった僕は、今日からまたあの餌の完食を強要されるのかと思うと、近所に住む6年生のミキちゃんがお迎えに来てくれても、ちっとも乗り気になれなかった。
『ねー、ミキちゃんは、給食美味しいって思う?』
この学校の給食を5年以上食べ続け、この先中学に進学しても同じ給食センターの給食を向こう3年は食わされるはずの、給食大ベテランのミキちゃんに僕は訪ねた。
『んーカレーとか、ミートソースのスパゲティが好きかなー?───ちゃんは何が好き?』
おいおい待ってください正気ですかミキちゃん。あの妙にジャバジャバして和の出汁の味がするけれど蕎麦屋のそれともまた逸脱したあのカレー、本当に美味しいかね、袋の中でクタクタに伸びきったブヨブヨのソフト麺は本当に美味いものかねと、僕は酷く狼狽する。
『カレーとミートソースは少し、食べれるのね。でもミキちゃんのおばちゃんが作ってくれたカレーのがずっと美味しいよね?』
食えるイコール美味いではないじゃないかと。ミキちゃんちのおばちゃんのカレーライスと学校給食のそれをおいしいという語彙で同一に並べていいものかと僕は食い下がる。
『アハハ。お母さんに言っとくね』
ミキちゃんは母の手料理を褒められ少し照れ臭そうに、けれど少し誇らしげに笑っていた。だけど僕が伝えたかったことはそういう事ではない。
一学期の間唯一美味いと思えたメニューが冷凍みかんだけだった僕の、学校までの足取りは益々重たくなった。

机の上には母が縫ってくれたウサギさん柄のランチョンマット。
その上に銀の盆に並べられたプラスチックの皿と先割れスプーンと残暑の気候の中で温まってしまった牛乳。
辛うじて口に運ぼうと思えるものが、固くなったコッペパンくらいしかない。牛乳が苦手な訳では無いけれど、冷たい牛乳かホットミルクのいずれかにして頂きたいし、バザバサの白身魚も、フルーツとヒジキを一緒に混ぜた妙なサラダも少しも美味そうに思えない。

2学期も大変元気よく給食を前にフリーズしてしまう僕に、担任の先生は、残さず食べるようにとあの手この手で僕に食を促す。
ちゃんと食べないと大きくなれませんよだとか、給食のおばさんがガッカリしてしまうだとか、お父さんがお仕事して稼いだお金で食べられる給食なんだとか、世界にはご飯が食べたくても食べられない可哀想な子供たちがたくさんいるだとか、戦争中の子供たちはお芋の蔓だって食べたとか、ありとあらゆる話しを聞かせては僕に給食を残さず食わせる労を惜しまずに働いた。

ところが僕という糞ガキは、本人に悪意や他意はないものの、この世に降り立ち若干6年、言葉を操るようになって4年余りの割には、周りの子供より脳内の矛盾や疑問を言語化する能力に若干長けてしまっていた。
なので、あらゆる変化球をつけた先生のお話しに対して、このクラスメイトはみんなそれまでこの給食を食べることなく1年生までスクスク育ってきているじゃないかという点や、それを生業にする以上は供給者側の努力も大切な点や、そもそも父は可愛い一人娘が美味いとも何とも思えないものを無理に食べることを少しも望んでいない、そういう感性の持ち主なのだということや、戦時中の人々やソマリアの子供達に哀れみの念は抱く事は出来ても自分が給食を完食する事で満たされるのは自身の腹であって、物理的に何も解決しない事等を子供らしい口調と語彙で丁寧に説明していた。
どんな変化球であろうとも僕の口答えは打率10割で打ち返し、連日若い女教師を悩ませた。

ただし相手は6歳の子供。このままホームランばかりを打ち返されては教師の名が廃ると思ったのか否か、ある日担任は
『今日は給食を全部食べ切るまで、お昼休みは無しです!』
と僕に言い放った。
元々食後20分の休み時間でわざわざ校庭に出てドッジボールに興じたり、ジャングルジムによじ登る事にさほど楽しさを見出していなかった僕は、それならそれで構わないやと机の隅に給食の盆を寄せて、空いたスペースにお絵描き帳を広げて、ドラえもんのお絵描きを始めた。
それを見た担任は劣化の如く怒ったので、僕は仕方なく、まだドラミちゃんが描き途中のままのお絵描き帳を、お道具箱に戻した。
そうこうしているうちにお昼休みは終わり、お掃除の時間になってしまったけれど、給食を食べないのならお掃除もしなくて結構と言うので、僕は一人掃除もせずにお席に座ってみんなのお掃除をゆったり眺めて過ごす。
『──ちゃんもお掃除やってよお』
というお友達の声にも
『先生がお掃除手伝っちゃダメだって』
と済まなそうに謝罪した。
そしてさっさと給食着を脱いでランチョンマットマットと共に給食袋にしまった。
机の上に直接置かれた埃を被ったであろう給食。こうなったら先生と根比べだ。帰りの会が終わっても、下校の時刻の放送が流れてもこのまま机の隅に食べ残した給食を飾っておこうではないか。

このまま先生とお泊まりになっても楽しいな、その際は先生からお母さんにちゃんと連絡してお着替えを持ってきて貰いたいな、などと僕は独りお泊まり教室を想像してワクワクしていたけれど、先生はアッサリ根負けして帰りの会が終わる頃に、ソレ片付けてきちゃいなさい。と言った。
僕の圧勝である。誇らしげな気さえして嬉々として配膳室まで一人、殆ど口を付けてない給食を運んだ。配膳室にいる用務員のおじさんに、担任がムキになってこんな時間まで片付けを引き伸ばしていたことを説明して、代わりに詫びておいた。

そんな担任と僕の給食攻防戦は秋が過ぎて7歳になっても冬休みが終わって3学期になっても暫し繰り広げられていた。
冬休みが空けてすぐ、今年の目標を書く宿題が出されると父のアドバイスもあって僕はこう書いた
『きゅうしょくをできるだけのこさずたべる』
できるだけ、だから。必ず、なんて書いていないと言えばいい。
相変わらず給食を少しも食べさせない上に、7歳児の新年の目標に余計な悪知恵吹き込んでしまった件で、三者懇談の際に母はこってり絞らていた。その際、お母様も是非1度給食試食会にいらしてくださいとプリント用紙を渡され、母は渋々…というよりは、娘がそこまで頑なに拒む給食がどれほどのクオリティなのかと、半ば興味本位で給食試食会にやってきた。
これでお母さんもミキちゃんみたいに美味しいと思ってしまったらどうしよう。そうだとしたら流石にそれは自分の味覚に問題があるのかもしれない。
給食試食会を終えて僕より一足先に帰宅した母の元へ、急いで帰宅した僕は、靴を脱ぐ間も惜しく訊ねた。
『お母さーん、ねー。給食どうだったー?美味しかったー?』
母は結構深刻な面持ちで
『──ちゃん、あれはちょっと食べられないよ…お母さんなんかビックリしちゃった…』
まさに、この子供にしてこの親ありな返答を子供相手に嘘偽りなく素直にしてしまい、 僕は共感者を得てすっかり勝ち誇ってしまった。
『でしょー?だから言ったじゃん。あんなんオカワリして食べてる子、おうちで何食べてるんだろうね』
鼻を鳴らして言う僕のその可愛げの無さに、母は頭を抱えていた。

今の時代は、アレルギーの問題や自閉症スペクトラムの子供たちらが抱える偏食の問題に理解が深まって、給食を無理やり食べさせる教育方針は概ね根絶されたそうだ。
昭和から平成に移り変わる時代は児童が吐くまで給食を残さず食べさせる事に全エネルギーを注ぐ教師がまだまだ多かったので、時代は変わったなと思う。
僕は6年生になっても中学生になっても給食を殆ど食わないまま、それでも月並みにスクスクと成長した。
好き嫌いが多く我儘放題に育てられた僕が、またいい大人になった今尚、武勇伝のように当時を回顧して文章に起こすことに難色の目を向ける人も当然居るだろう。

ただし僕は6歳のあの当時、両親が絶対的な味方であり続けていてくれた事で自己肯定感を大いに育めたことは確かだ。
尤も、子供を持つ親として他所とちょっと変わっている彼らは、子供の自己肯定感を担う為にそう発言していたのではなく、親としてのちょいとしたアドバイスで『出来るだけ』と書かせたり、本心からの感想で『確かにビックリするほど美味くなかった』と告げてしまったのだけなのだろうけれど。

それでも未だ忘れられないくらい、彼らに守られている、彼らは解ってくれるというという安心感の中、ちょっと風変わりな愛情を受け、こましゃくれながらもスクスクと大人になれたことを、僕は42歳になろうとしている今でもとても感謝している。


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