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劇団四季の研究生

私は小さい頃から、宝塚歌劇団を目指して生きてきた。しかし音楽学校の最終試験まで残ったけど入学することは叶わなかった。

恐らく同じ様なことが劇団四季でも起こりうるだろう。小さい頃から劇団四季を目指してお稽古をしている人もいるだろう。
そしていくら頑張っても劇団四季の舞台に立てない人もいると思う。そういう方から見れば本当に失礼な研究生だったかも知れない。


私は劇団四季の事を何も知らないまま劇団四季の研究生のオーディションに合格したのである。

特に劇団四季が好きな訳でも無く、立ちたい演目がある訳でもない。
目指している女優さんも居ない。
むしろどんな人が所属しているかも知らない。
上京したからには、何か爪痕を残したい、次の舞台に繋げたい。そんな想いだけで合格したのである。

2000年の春
サンリオピューロランドの契約が終了した私は、劇団四季の研究生として舞台を目指しお稽古をすることになる。

しかしながらこの劇団四季研究生という立場は必ずしも舞台に立てるとは限らない。
素質が無いとなると、舞台には立てないまま、辞めさせられるのである。

宝塚のように、音楽学校を卒業したら自動的に宝塚歌劇団に入団出来るシステムとは大違いなのである。

私が入団した頃は、まだまだ浅利慶太先生が大活躍されていた頃で、先生の鶴の一声でなにもかもが根底から覆される事も多々あった。


現在の劇団四季は全く知らないので、あくまでも23年前の私が在団中の時代の話である。

研究生の1日は、朝、稽古場に着いたらまず割り当てられた場所をお掃除する。
その後、自分のレベルのクラスで、バレエのレッスン、開口発声、ジャズダンスのレッスンと続く。
昼食後は、日によるが演劇や舞台の為の稽古時間や自主稽古となる。

レッスン代はかからないが、お給料は出ないし、寮なども特に無いので基本的に親からの仕送り生活となる。


私の期は若い子は中学校卒業したての16歳から24歳ぐらいまでの男女が30人程いた。
出身は、北海道から宮崎県まで居て劇団四季の人気の凄さを感じた。
方言は禁止。後、スキーやスケートなど骨折しそうなスポーツも禁止だった。

私は研究生の初日に既に気付いてしまった事があった。
それは、自分の技術の中途半端さだった。

具体的に言うと、私は超ダンサーでもなく超シンガーでもない。
特に女子はバレリーナが多かった。しかもコンクール経験者。

私には、「自分はコレで行きます!」
みたいな売りが無かったのである。

芝居も、劇団四季特有の母音での開口発声すら知らない有様だった…(笑)

後に知るのだが、劇団四季に受かりやすい演劇高校?みたいなのが東京にあるらしく、その高校出身の子は開口発声がバッチリだった。

なんで私みたいなのが合格しちゃったのかな?
これが私の初日の感想であった。

そんな私が研究生として、刺激的な毎日を送る事になる。

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