#3 人生を溶かしはじめた日々

バイトばかりしていた自分に巡ってきた指導の仕事。飛びついた。断る理由がなかった。

秋から指導を始めたその高校の吹奏楽部は、よくいえば「自由」、悪くいえば「無法地帯」状態だった。パート練習が機能していない、後輩が先輩に怯えている、顧問は職員室から出てこない。逆に燃えた。伝統がないということは、自分がイチから作っていけばいい。いきなり現れたぽっと出 22歳の講師に怪しむ生徒たちを尻目に、部室の掃除をしていたのが最初1~2か月だったと思う。

3月に初めての定期演奏会があり、今まで抑圧されていたらしい生徒たちに、君たちの好きな曲で好きな演出でやってみよう、と言ったら とにかく楽しんで準備してくれた。衣装を自前で全部用意し、はじける笑顔で踊って、客席が見たことないほど盛り上がっていた。今でも鮮明に思い出せる。楽しすぎて終わりたくない、と泣いていた子の顔を今でも思い出す。

なんというか、先生、というよりは22歳と16~18歳の子たちで 年齢も近かったこともあり、同じ目線で走り抜けていたような、部長みたいな気分で講師をやっていた気がする。本当はそんな気分でやっていちゃダメなんだけど、とにかく部活指導が楽しかった。合奏すればするほど音が良くなるし、良い演奏が見えてくる。楽しい。生徒はみんな可愛い。1つ1つの出来事を通して成長する高校生たちの姿が 心から愛おしかった。


その部活が、わたしの人生だった。といえば聞こえはいい。しかし言い換えれば、「人生のすべてをそこに溶かしていた」。

その非常勤だけでは十分な収入にならなかったので平日昼間はバイトしてその足で夕方部活へ、の日々だった。自分の楽器を練習するより、指導案を練っている時間がたのしい。コンクールや演奏会の選曲、基礎練習プラン、それらを考える時間で空き時間は埋まっていた。部活をもっと育てたい。合奏を上手くさせてコンクールの成績も取りたい。

前述したように、主顧問が職員室から全く出てこない先生で、部活の主導権はほぼ私にあったので好きなようにできた分、私自身のタガが外れて ほぼ顧問業のようなことをしていた。トラックの手配や金銭的なことだけ主顧問、練習内容、演奏会の打合せ、生徒のメンタルケア、パートレッスン講師の手配連絡、すべてに手を出していた。これが良くなかった。典型的な「私が全部やる病」である。

「私が全部やる病」なので、人に頼ることを知らなかった。ので、よく倒れた。最初のコンクールでは直前に1か月発熱が引かない病にかかり、熱を出しながら合奏したり指揮を振っていた。そんなことを数年繰り返していた。恥ずかしながら、「猪突猛進」であることが一番部活を成長させることだと思っていたので、自分が頑張れば頑張った分 結果が出ると信じて疑わなかった。単細胞だなと我ながら思う。

だんだん、「生徒と一緒に楽しんでやる」から「結果をとにかく出したい」に願いが変わっていく。ここから苦しむ数年が続く。


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