欅坂46は今こそ秋元康に向けて『一番偉い人へ』を歌うべき

『サイレントマジョリティー』のねじれと秋元康に感じる不思議

 欅坂46の1stシングル『サイレントマジョリティー』には、次のような一節がある。

君は君らしく 生きていく自由があるんだ 大人たちに支配されるな

 眼光鋭い少女たちが生まれてきた意味を問いかけ、「大人たちに支配されるな」と訴える。若い世代に限らず、多くの人の心に刺さる力強さを持った名曲である。
 しかし、自身の興奮を抑え、少し距離をとってこの曲について考えると、ある違和感を覚えずにはいられない。それは、「大人たちに支配されるな」と訴えるこの詞を作ったのが秋元康であり、彼女たちを集めてデビューさせたのも、紛れもなく「大人たち」だということへの違和感である。既に何百万回も指摘されてきたことではあるが、『サイレントマジョリティー』は、「大人たちに支配されるな」という歌を大人が少女に歌わせるという、ねじれを孕んだ楽曲なのである。
 この『サイレントマジョリティー』のねじれに触れたとき、私は、秋元康という人に対して、どうしてこんなことができるのだろう、という感想を持った。
 ゼロ年代終盤にはじまるAKBグループの隆盛にしろ、その後の坂道シリーズの活躍にしろ、その裏側には常に秋元康というブレーンがいて、彼の仕掛けが全てに大きく作用していることはほとんど誰にも知られていたわけであり、にもかかわらずその秋元康が「大人たちに支配されるな」というメッセージを少女に歌わせる。
 少なくない人間から、「いやいや、結局お前が歌わせてるじゃん」というツッコミを受けることは容易に想像できたはずなのに、そうしたメタな視線は気にならないのだろうか、と疑問に思ったのである。

秋元康はどんな人間なのか 

 そんなわけで、『サイレントマジョリティー』を聴いて以来、秋元康についてぼんやりとした疑問を抱いていたわけだが、最近、それについてひとつ「なるほど」と思うことがあった。それは、『ポスト・サブカル焼け跡派』という本を読んだときのことである。

 この本では、「ポップミュージックの重要人物」が年代ごとに数名取り上げられており、秋元康も10年代の重要人物として分析が加えられている。著者(2人組)によれば、秋元がかつてプロデュースしたおニャン子クラブが「素人の女の子のラフさを垣間見せることで成立していた」のに対して、AKBは少女たちに「全力疾走」をさせるシステムなのだという。彼らは次のように語る。

AKB48というのはそれこそ少女たちに「全力疾走」させる環境を作ることで成立している。今の秋元は「娘」たちに「全力疾走」させる男であるわけだ。僕はそこにどうにも気色悪さを感じるというか、冷徹な広告屋として自分が用意したシステムの上で「娘」たちが「全力疾走」するのを見て涙する、みたいな奇妙な男の姿を感じてしまう。(TVOD著『ポスト・サブカル焼け跡派』百万年書房, 2020, p.212)

 ここで言う「全力疾走」とは、典型的なアイドル歌手のような、作り込まれた様式的振る舞いではなく、その人間の素の部分が現われる、ホンネの見えるあり方のことである。思えば80年代のおニャン子クラブも、ラフな素人のやりとりを見せることで、これまでTVに映ることのなかったホンネを届けていたわけであるから、秋元康は、いつの時代もある種のホンネを観る者に届けようとしていたことになる。
 秋元康はホンネを引き出す「全力疾走」の場を自分で設定しておきながら、そのホンネの振る舞いを傍から観て、観客とともに「涙する」ことができる。なるほど、そういうパーソナリティの持ち主であれば、『サイレントマジョリティー』で「大人たちに支配されるな」と歌わせたとしても、彼の中では、何らねじれは生じないことになるだろう。
 要するに、秋元康とっては、自分のプロデュースによって成立した曲であったとしても、そこに込められたメッセージはあくまで少女たち自身のホンネなのである。だから、それを傍からみたときには、自身に対するツッコミを意識して萎縮するより、観客とともに涙を流すことができるのである。

少女たちのホンネの行方

 というわけで、その後の欅坂46に対しても、秋元康はより強烈なホンネを『不協和音』などで歌わせつつ、ツッコミを入れるよりは「意志を貫け!」と共に叫んで震え、涙する(見たことないけど)。
 しかし、ここで目を向けてみたいのは、ホンネを歌わせるプロデューサーではなく、そうしたホンネを歌うことになる少女たちの方である。彼女たちは、「意志を貫け!」とホンネを叫べば叫ぶほど、その代償として、意志を貫いてばかりはいられない自分たちの活動とのあいだに、齟齬を感じてしまうのではないだろうか。
 とりわけ、8thシングル『黒い羊』には「そうだ僕だけがいなくなればいいんだ そうすれば止まってた針はまた動きだすんだろう?」という歌詞が登場する。そのような孤独な心情をセンターで歌い、そこにホンネを込めば込めるほど、同時に、みんなと同じように振る舞うアイドルグループにとどまる自分に対して、彼女は強い矛盾を感じてしまうのではないだろうか。
 そもそも、大衆批判や大人社会への反逆というホンネは、様式的な振る舞いの求められるアイドルグループの活動とはかみ合わせが悪い。だから、私は、欅坂46の活動の顛末にセンターの脱退があるのは、ある種の必然であるような気がして仕方がない。
 グループの内情などを子細に理解しているわけではなく、また詳しい脱退の経緯も把握はしていない(そのせいで、この文を読んだ欅坂46ファンの方が不快な思いをされたら申し訳ありません)のだが、センターの脱退はグループの崩壊などではなく、むしろ、センターの脱退をもってこのグループのコンセプトは一つの達成を迎えたような気がするのである。
 ちなみに、そんな脱退の顛末を見る秋元康はやはり、冷徹なプロデューサーであるよりは、傍から見守る観客となって、少女たちのホンネに涙を流しているのだろう。観客としては、それが正しい。しかし、ホンネで振る舞うよう少女たちに求め、そのための場を設定したプロデューサーとしては、それってどうなんだろう?

今こそ、欅坂46が歌うべき歌

 では、ここで問いたい。センターの脱退したあとの欅坂46が、次に歌うべき歌があるとすれば、それは一体どのようなものになるのだろう。
 先にも述べた通り、大衆批判や大人社会への反逆というコンセプトは、センターの脱退で一つの達成を見たと言えるだろう。だから今後、同じようなコンセプトのままに、彼女たちが批判や反逆を表現することは難しい。だが、楽曲それ自体でホンネを表出してきた道のりがあるから、彼女たちがここからまた、王道恋愛アイドルソングに回帰することも容易ではないだろう。では、彼女たちは今、何を歌えば良いのか。秋元康は、彼女たちに何を歌わせられるのか。
 秋元康がホンネを引き出すプロデューサーであり、欅坂46の今のホンネを歌わせたいと考えるのであれば、私はこれしかないと思う。1992年にリリースされた、とんねるずの19thシングル『一番偉い人へ』(作詞:秋元康/作曲・編曲:後藤次利)である。
 当時、30歳の(勢いはあるがあくまで)若手芸人だったとんねるずが「一番偉い人へ 俺たちは 今何をするべきか」と尋ねるとき、そこで想定される相手はお笑い界の大御所だったり、もしくは時の権力者であったり、総理大臣だったりするだろう。しかし、欅坂46にとっての「一番偉い人」は誰かといえば、それは、誰が考えても秋元康になる。
 とんねるずに『一番偉い人へ』を提供したころの秋元は、やはり(勢いはあるがあくまで)若手の構成作家であったから、一方的に問いかける歌で若者の共感を集めることもできた。しかし、今の秋元康は、大御所かつ超大物のプロデューサーである。今の秋元康には、誰かに問いかけるよりも、むしろ問いかけに答える責任がある。自分でまいた種なら尚更だ。
 だから、欅坂46には、今こそ秋元康に対して「もっと大切な何かを 教えてくれ」と迫って欲しい。大衆批判や大人社会への反逆に出口がないことなんて、秋元康は30年以上前から分かっていたはずだ。「社会とは窓ガラス割らないルール」であり、上目遣いで媚びることができないからといって、怒りを握りしめるだけは何も始まらない。そんな過ちにずっと気づいていながら、秋元康はBe coolであるより少女にホンネを叫ぶようあえて迫り、そして勝手な涙を流していたのである。

 欅坂46は今こそ『一番偉い人へ』を歌うべきであり、秋元康は「一番偉い人」になった責任を果たすべく、反逆以上の答えを示すべきだ。

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