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実感句について語ろう!
川柳を詠むのも好きだが、人の作品を読むのも大好きだ。読んでいくなかで、ハッとさせられる表現に出会ったり、その句の瞬間的に良いなと感じた部分をなんで良いと思ったんだろう、と言語化しようとしたりするのも好きだ。
そんな、人の句の良さを伝える言葉の一つとして、「この句は実感がこもっていて素敵ですね」という言い方がしばしば用いられる(し、私も使っている)。
人は何をもって、「この句は実感句だなあ」と感じるのだろう。
今回は、実感句をテーマにしていきたい。
■そもそも実感句とはなんだ
その前にそもそも、実感ってなんだ。
「実感」という言葉を辞書で引くと以下であった。
「実感」:
① 現実の物事から得る感じ。また、実際に接しているような感じ。心の底からでた真実の感情。
② 実際に接しているように感じること。現実のものとして感じること。
つまり実感には、①その人の真の感情、②空想や想像ではない、実際に接している感じ、という2つの意味がある。
いきなり俳句の話をして恐縮だが、夏井いつき先生が「私の脳を悦ばせてくれる句はどれも必ず、「想定外のオリジナリティー」と「想定外のリアリティー」を合わせ持っています。」と仰っている。これも上記の辞書の言葉を区分すると①オリジナリティ、②リアリティ、と分類でき、「実感句」に紐づく考え方だと思う。対象をジッと見つめる眼差しと、そこから得た自分だけの気づき、といった感じが実感句だろうか。
■実感句の強さ
例えば、私の好きな川柳の1つに以下がある。
春うららバスがコースを間違える
春の、のどかな空気の中を運転していたら、運転手が道を間違えましたよ。という川柳だ。菜の花や桜が咲いていたり蝶がが飛んでいたりする景色。「あ、コースを間違えた!」とハッと気が付いた運転手の「す、すみません」という車内アナウンスが響く。乗客もなんだかのんびりしていて「いいよいいよ」なんて、全然怒っていない、そんなひと時が目に浮かんでくる。(全部私の頭の中の話)
この句は川柳マガジンのアンソロジー的な紹介で知ったため、どういう背景で詠まれたのか私には分からない。実際の出来事かもしれないし、フィクションかもしれない。でも、事実かどうかはここでは関係なく、私はこの句を実感がこもっていて素敵だなと思った。
読んだだけでその情景や想いがぶわああっと立ち上がってくるのが、実感句の魅力だと私は思う。
■実感がこもって感じられない句
逆を言うと具体的ではなく、独自性がない句、というのがnot実感句、ということになる。
例を出すのが難しいが、例えば「小さいね紅葉みたいな二歳の手」(今私が5秒で考えた)とかだろうか。幼子の手をもみじ手と呼ぶことは定型表現で、特に作者の独自性も具体性も見られない。(ぼろくそ)
以下は短歌の話だが、「夕焼け=きれい」ではよい短歌は詠めないという内容の、公募ガイドの穂村弘のインタビュー記事は非常に勉強になった。このインタビュー記事にある、「反社会性の要素を含む短歌」と異なり、川柳の場合は、標語的要素が必要な場面も存在すると思うが、百人が見て百人が同じことを思う句を詠んでも、そこに人を惹きつける魅力は生まれない。それは短歌も川柳も同様に感じる。
■終わりに
「実感句」について今日は書いてみた。「公募川柳」に投句している身としては、受賞にもこだわっていきたいが、実感の伴う、自分の中で納得のいく句の作句もまた、追い求めたい永遠のテーマだと思う。
公募川柳のために使います。