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ロールキャベツは ちょっぴり 「うそ」の味がします。

小さい頃から母親に言われ続けていた
『嘘ついたら、あかん!』

どこの親でも同じことを言っているはずだ。
けれど、その回数ときたら
うちの母親は間違いなく、ご近所ナンバー1である。

それぐらい、少さいころから「うそつき」だった、私。
自分で言うのだから、間違いない。事実なのだ。

本当は、母に褒められるような正直者でいたかった。
けれど、思ったことを正直に発言しても、
ちょっとしたワルサを白状しても、
いいことなんて起こらなかったし、
私にとって、結果的にメリットなんて得られなかったから。

体験的に身についた処世術、それが『うそ』。

多少なりとも良心の呵責に苛まれつつ、自己防衛のために。
それとも、さして面白くもない話に脚色を加えるために。
あるいは、矮小な自分の姿を少しでも大きく見せるために。
さらには、相手のココロを傷つけないために。

次第にそれは、私の日常に溶け込み、馴染んでしまって
真実そのものの価値が見いだせなくなることもあった。

だからこそ、この『嘘』と上手につきあっていかなくちゃ。
真実ばかりを崇拝しても、なにもいいことなんかない。
小説も映画も、ドラマも芝居も
全部が真実だったら、ぜんぜん面白くなんかないはずだ。

『本心は秘めておいて、そっと置いていたほうが良い嘘』
正直者が大好きな母に、いまさら正直に言えない
『うそ』についてのお話。

お世辞にも、料理上手といえない母のもとで育ち、
記憶に残る「おふくろの味」はすべてがピンボケ。

煮物、焼き物、炒め物・・・。
「白いご飯がおいしくなる」という理由から
塩と醤油を駆使して、おかずはいつも塩辛い。
焼き物や揚げ物には、必ずどこかにコゲがあるのも特徴だ。

父が食卓の料理をほめているのを、見たことがない。
不幸なことに、父は正直者なのである。

新婚当初から続くこの状況を
無言の抗議というカタチで耐え忍ぶ父を、
家族のだれも責めたりはしない。

反面、料理にポリシーを持たない母のローテーションは
子どもにとっては、重要な問題にはならない。
カレー、シチューにハンバーグ、
焼き飯、ときどきオムライス。
私たち子どもが喜ぶからと、
頻繁に登場してくれるのだ。

どこかで仕込んできたような新手料理も
幾たびか登場することはあったが、
物珍しさにざわつくこともない、静かな食卓を反映してか
再登場することはなかった。

ある日、母にどんな気まぐれの風が吹いたのか、
いつもの見慣れたカレー皿にうす赤いスープ。
中央には小包状が二つ鎮座する、初登場の料理だった。

私と妹の予想では、今夜はハンバーグで一致していた。
的が外れてガッカリの二人に
高らかに母が宣言する。
『ロール・キャベツ!』
どうやら昼の料理番組に影響されたらしい。

しどけなくも、はだけかけたキャベツの衣装の隙間から
ほのかに見えるミンチ肉のカタマリ。

およそ煮込む野菜として認識していなかった、キャベツ。
それさえどければ、もはや煮込みハンバーグだ。
この ”まやかし” を見切った私は
不安から安堵へ振り切った勢いのあまり
思わずしらず「おいしいっ」と口走ってしまった。
その言葉に誇らしげな母の顔。

とっさにひらめいた『嘘』の効能、
このささやかな母の挑戦を、
ことさら大げさに褒めたたえることが親孝行、
大好きハンバーグはいったん置いて、
サービス精神いっぱいに「これって、すんげーうめぇ」と
最大限の感想(うそ)を発していた。

それ以降、運動会での活躍、入学、部活での活躍、はたまた彼女ができたといった諸々のお祝いごとには、
必ず食卓の中心に「ロールキャベツ」がある。
社会人になり、チョット高めの洋食屋で「ロールキャベツ」を食したが、スープは透明で母のものとは違っていた。
申しわけないが、どちらのパターンもやっぱり興味はない。好きでもなく、おいしいものだとも思っていない。

私の結婚で姑となった母親は、その門外不出の簡単レシピをわが嫁にしっかりと引き継いだ。
しかし、真実を知る我が嫁が
「ロールキャベツ」を食卓へ並べることはない。

今でも帰省するたび、
母は、「ロールキャベツ」を不器用に巻いている。
そのたびに「うそつき息子」が、さらに重ねる『うそ』。

果たしてこれは親孝行?
それとも親不孝?

ときどき思う、
じつのところ母はすべてをお見通しで、
安易についた私の『嘘』への報復、お仕置きとして
「ロールキャベツ」を使っているのだったら・・・と。


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