鬼生田貞雄の文学 ―第六回― 「それは苦難の道だよ」(五―完結)

 実父を失い、移った先の廣度寺における彼の暮らしむきははっきりとはしていない。分かっているのは母フクがいつの時期にか、喜多方の安勝寺に嫁いだことであり、そしてそのフクが、今は埼玉の墓地に息子とともに眠っていることである。温和な父を失った上、僧家独特の跡継ぎ問題が擡頭する中、どうも母子ともども、なにかしらの反撥的な気分をそこに宿していたようだ。邪推に流れるつもりはないが、そう考えれば母子それぞれの足跡に納得がいく点が多い。
 当時を知る者の文章を引く。

 くわしい事はわからないが、貞淳の祖父は長男であったが、祖父の父が元気であったので、三春町龍穏院にいたようです。私の母もこの寺に眠っております。貞ちゃんの父が意外に若く死別のあと、広度寺の父が死んだと憶います。末弟の義俊は福島鉄道局に勤めていたのをやめ、寺のあとつぎとなる。あとつぎの問題のためか、くわしい事情がわからないが、ごたごたがあったのだと憶う。その時まだ貞淳は学生時代のようです。また貞ちゃんの母が他に嫁いだためか、貞ちゃんの中学時代に私と貞ちゃんに連られ鬼生田に法要に行ったが、祖父の実家にはあまり足を入れないようです。鬼生田義俊と貞淳とは親しくなく冷たかった。私は成長し昭和九年に鬼生田に行った。その時貞ちゃんはどこに住んでいるかと聞いたが相手にしてくれず、貞の野郎というだけで、私もその時冷たい叔父だなと感じました。
       本田徳治「郡山市鬼生田在の貞淳(貞雄氏の本名)のこと」

 昭和八年に明治大学卒業後、彼は東京の役場に勤務を始め、二年後の昭和十年には結婚をしている。その一人息子は、父鬼生田貞雄が意固地なまでに故郷に帰りたがらなかった、と記すことになる。
 現在の廣度寺住職のご子息に拠れば、直木賞候補作を発表した前後、つまり昭和二十九年前後、作家は松川事件について左翼的な文章を書いたことで、鬼生田家を「勘当」されたという。肝心のその松川事件関係の文章を私はまだ追えていないが、タイミングからいって、養父が直木賞の名とともに聞こえてきた貞雄の小説を手に取って読んだ、ということもあったかも知れない。
 のちに「勘当」された事実を参照すれば、引用した文章について、透けて見えるところが出てくる。跡取り問題や廣度寺そのものに対して、貞雄は投げ遣りであらざるをえなかった。大学時代には、彼はすでに東京に馴染んでいた可能性があるし、また卒業をおいて二年後の結婚であるから、大学時代にすでに結婚相手と出会っていた可能性さえある。なにより大学在学中にすでに小説家になる志を持っていた、としたのならば、東京に住んで好機を伺うのが普通である。鬼生田貞雄は鬼生田家の人間として、寺院を継ぐ態度を採らなかった。採ることができなかった。おそらくそれは、彼にとっては避けられない、仕方のないことであった。
 二人で約してのことか、長尾生一もまた、貞雄のあとを追って明治大学に進んでいる。彼が帰省したころ、貞雄もいる場で長尾生一が「お尚さんに将来を聞かれ」る場面があった。「小説家になりたいと思います」と長尾生一が答えると、
「それは苦難の道だよ、私は月給取りになるつもりだ」
 そう鬼生田貞雄が云ったのは、その時の本心からであったのか、それとも養父の手前からであったのか。
 どうも、後者である方が直観的には、私には腑に落ちるところがある。養父は彼にとって、素直に真情を吐露できる相手ではなかったのではないか。
 どうあれ、「小説」を書くという営みは、彼にとって秘せられた真情に似て、いつもどこかに包み隠された地点から発つ営みとして、存続されていくのだ。

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福島県生まれの戦後作家の唯一の評伝を収録(第73回福島県文学賞入賞)。石上玄一郎らとともに作った同人雑誌から幾人かの芥川賞作家を輩出。ベストセラーを多数出版して、戦後の二見書房の復興に貢献。収容所文学、地元福島県を舞台とした小説でも傑作を書き残すも、地元の福島県内ですらまったくの無名の作家――それが鬼生田貞雄です。

福島県生まれの小説家、鬼生田貞雄についての文章をまとめています。評伝「鬼生田貞雄の文学」は一章部分のおわりまで無料で公開しています。この作…

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静かに本を読みたいとおもっており、家にネット環境はありません。が、このnoteについては今後も更新していく予定です。どうぞ宜しくお願いいたします。