鬼生田貞雄の文学 ―第二回― 「それは苦難の道だよ」(一)


   一 「それは苦難の道だよ」

 龍穏院、正しくは曹洞宗秋田山龍穏院は、三春町の中心市街にほど近い山の中腹にある総欅造りの名刹であり、十四間に七間半の広さは戊辰戦争時には病院として、自由民権運動の折りには演説会場として活かされた。その住職の鬼生田咢全(かくぜん)が、鬼生田貞雄、本名貞淳(せいじゆん)の父であり、咢全の命名から察しがつくように、祖父代もまた僧職にある。
 明治四十一(一九〇八)年七月十五日、作家はその寺院に一人息子として生まれた。優れた戦後作家が生まれるのには過不足ない生年だ。そのころ祖父はまだ存命であった。
 作家の父咢全は温良な人柄であり、彼はのびのびと成長することを許されていた。その当時、寺院のはなれは学生たちの下宿を兼ね、咢全は学生たちに「和尚さん」と呼ばれて、親しまれていた。その下宿に世話になっていた彼の学友が、咢全が「国木田独歩を愛読していた」と書き残している。鬼生田貞雄がどのようなものを読んでいたかについては全体に謎であり、国木田独歩というのがどうも絶妙であるものの、ならば他にも漱石や藤村の蔵書が、幼少期の彼の手に届くところにあったかも知れない。換言すると、当時の田舎町であるから、家に本があることを前提条件として有していない児童は多くあったが、彼の場合においては、けしてそうではなかった。
 母はフクと云った。色の白い細身の女性であった。彼が上京をして、居を構えてからのちも母子の交流は続いていたようだが、詳しい事情は分からない。どうあれ彼女が生んだ一人息子が少年期に入るのを俟たずして、明治の御代は終焉をする。田村中学校入学以前、大正期の少年時代の彼については、記録や証言は残されていない。

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福島県生まれの戦後作家の唯一の評伝を収録(第73回福島県文学賞入賞)。石上玄一郎らとともに作った同人雑誌から幾人かの芥川賞作家を輩出。ベストセラーを多数出版して、戦後の二見書房の復興に貢献。収容所文学、地元福島県を舞台とした小説でも傑作を書き残すも、地元の福島県内ですらまったくの無名の作家――それが鬼生田貞雄です。

福島県生まれの小説家、鬼生田貞雄についての文章をまとめています。評伝「鬼生田貞雄の文学」は一章部分のおわりまで無料で公開しています。この作…

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静かに本を読みたいとおもっており、家にネット環境はありません。が、このnoteについては今後も更新していく予定です。どうぞ宜しくお願いいたします。