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映画レビュー

 「フォードvsフェラーリ」(☆☆☆☆)
 5寄り。二時間半、堂々とした結構で組織と個人を描き、標題にも表れている冷戦としてのテーマも興味深い。ユーモアは上質で、新しい古典としての風格をたたえている。配役は良し、レースシーンは音響が良く、音楽も適切で心地良い。結末部分の弱さは全体の完成度の高さに比して、目立った瑕疵とはならないだろう。顛末について知らない向きは、下調べはしないほうが楽しめます。

 「ゴッズ・オウン・カントリー」(☆☆☆☆)
 「アンモナイトの目覚め」に比して小振りである、というよりもアンモナイトの前哨戦である感が否めないが(いい俳優ではあるものの、さすがにあの女優ふたりの名演を前には……というのもあるし、アンモナイトはもっと作品としての広がりがあり十九世紀を舞台としたことによって美術も色彩感もきわめて美しかった)、バイセクシュアルというモチーフを扱うセンセーショナルさによってではなく、たしかな撮影と音響の技術によって作品の強度を確かにしている点に注目すべきである。パンチ・ドランク・ラヴまでのPTAを思わせるような高い水準で映像と音の作品を作れる監督は、現代でほかにはいないように思われるほど。これはPTAでは観られない点だが、間合いや沈黙がひたすら美しく、文学的香気が芬々としていてたまらない。

 フランシス・リー、二作にして名監督です。こっちはゲイの話で、自分はゲイじゃないよと云いたかったのか、それとも女優で試してみたくなったのか、アンモナイトはレズビアンの話なわけです――というわけでこれまでの二作はいわば姉妹編か、兄妹編にあたる。同性愛の話だものだから姉妹も兄弟もなんだか、不適切ですが(笑)。そこで、さて次作で一体なにを撮ってくれるのか、そこが正念場となるわけで、私は多いに期待をしています。たとえ失望させられるハメになったとしても、期待を寄せるに足りる素晴らしい才能だとおもっているのです。「アンモナイトの目覚め」に私は本当に感激をしているのです。

 「ラスト・ディール 美術商と名前を失くした肖像」(☆☆)
 美術商のしんどさがよく捉えられている点は評価に値するが、フィリップ・グラスを真似した音楽が終始うるさく、ニュアンスもなにもあったものではない。銭金をめぐる問題と親子愛の問題との落着も腑に落ちない、綺麗にまとめようとして嘘っぽくなってしまった印象が拭えない。

 類似した作品として、これもいい映画ではありませんが(あの監督は「ニュー・シネマ・パラダイス」のころから上手い監督ではないと思っている)、美術作品が絢爛と出てくる近作の映画には少し前にレビューした「鑑定士と顔のない依頼人」でしたっけ、がある。カネがかかっているので、絵画がいっぱい出てくる映像としてはそっちのほうが優れています。こっちはなんだろう、神保町とかの埃っぽい感じがよく出ている。

 「ジョン・F・ドノヴァンの死と生」(☆☆☆☆☆)
 観劇後、インタビュアーとおなじ気分になってしまったから、☆よっつではなく、五つにします。テリー・ギリアムやジャン=ピエール・ジュネやウディ・アレンのような前面にせり出てくる作家性ではなく、独特なカメラワークや照明による絵の力、わざと恥ずかしい音楽を流す選曲のテクニックによって、感覚にダイレクトに訴えかける独自の映像作品を作り出す、きわめて特異な才質をもった監督がグザヴィエ・ドラン。この作品は古典的な枠物語の構造を有しており、その成り立ちがいかにも作品に対する弁解や自己言及となる弊を犯すのではないかと冷や冷やさせられたが、この映画の場合「俳優」や「嘘」を題材としているため効果をあげている。人生の一回性についてのヒリヒリとするような感覚を(共感性の羞恥を喚起させてくる恥ずかしい選曲とともに)堂々としたタイトルの通りに体験させてくれる。「市民ケーン」はもちろん観ておかなければ始まらないような古典なのですが、今となってはそこまで、たいした映画ではないと思っているのですよね――この映画はそういうことをあらためておもわせてくれる力を持っている。

 ちなみに一時間くらい経過したころから流れ出すBGMは「マグノリア」のスコアーの明確なパクリで、主題となっている(エンドロールでピアノで流れる)メロディラインもおそらくそうでしょう。余談の余談ですがヴィム・ヴェンダースが製作総指揮をとった「Rain」という映画は多分「マグノリア」の影響下にある、凡作でした。
 ――それはともかくわざと変な曲を使う技法が本当にすごい監督で、恥ずかしい曲が流れる恥ずかしい映画ではもちろんない、恥ずかしい音楽をわざと流してコメディ風にバカバカしくさせる、でもなく、この人はこのキャラクターはこういう音楽が好きなのだ、それはしかたがないのだという状況なりセンスをしっかりと現象としてみつめ、見守るようにカメラに捉える――大胆に変な曲を流してしまいながらも映画としてのバランスを崩さないそのあり方も含めて、やっぱり不思議な才能だよなぁと感服してしまう。「たかが世界の終わり」ではマイヤヒー、なんていうのが流れていて、家族という主題とあいまったくすぐったい感覚になるのですよね、それはもう、監督のもくろみの通りに、そうなるわけです。

 「サヨナラの代わりに」(☆☆☆)
 テレビ映画かと疑うまで使っている機材が古く画面比率がでかかったり、舞台の人が監督していて脚本が駄目なため序盤がひどかったりと最初多いに面食らうハメになり、ALSについての教材を観させられているような感覚はどうも最後まで抜けきらない上、それっぽく影のあるキャリアをもつ女優をキャスティングしているのだが――ヒラリー・スワンク、エミー・ロッサム、ともにいい演技をしている。序盤のエミー・ロッサムが大根にみえてしまうのは脚本のせいだろう。邦題はほとんど意味不明。身体が不随になった上流/その荒っぽい下流の(こっちは学生だけれども)介護人という構図でみたとき実話をもとしにした「最強のふたり」に全体に劣るのはいうまでもないが、ヒラリー・スワンクは名演はとても魅力的であると、言い添えておきたい。

 率直にいって全然、いい映画ではないです。応援ソング系というか、明確なわかりやすいメッセージを落ちにした映画というのは基本的には私はダメだと思っている。すくなくとも見終えたあと、複雑な余韻をのこす両義性を突きつける映画のほうが、ただ両義性を作り出したという点をもって、評価の点が高くなるのは当然のことと思うのですよね(中途半端で消化不良になっているものは当然ダメですよ。それは両義的なのではなく、曖昧になってしまっているだけなわけです)。ただし、ね――ALSの介護にあたっている方々とかにとっては、この映画はかけがえのない作品となるポテンシャルをもっているかもしれない。そうした配慮をふくめると、こういう映画というのは評価が本当にむつかしいですよね。ですがまあ、それを抜きで、演技をみる映画、というのでべつにおもねるようにして☆みっつにしたわけではないです。

静かに本を読みたいとおもっており、家にネット環境はありません。が、このnoteについては今後も更新していく予定です。どうぞ宜しくお願いいたします。