鬼生田貞雄の文学 ―第一回― 序言(全)


   序言

 これは福島県が生んだ小説家鬼生田貞雄(おにうださだお)の初めての評伝である。
 それがために、この評伝は未完成の評伝である。それを私は惧れない。今後、福島県に生を享けて才筆をふるったこの作家について、認知と理解がいささかなりとも広まり、さやけきかたちであれ研究が進んでゆくことを、私は祈願をして已むことがない。それがこの文章を書き始めるに際しての、私の姿勢である。
 彼は不遇の作家であった。直木賞の候補に一度名前が挙がったきり、文壇に名を馳せることはなかった。だがなにより彼が「不遇」であったのは、彼が質の高い小説を書き残していた事実に、これまでだれも正当な注意を払わずにきた、その単純な一事に由来している。戦後日本文学の鉱脈を前に、近年、北園克衛や小沼丹が復刊され、天才詩人左川ちかが発掘される、といった流れが起こった。どうあれ、その鉱脈の中で鬼生田貞雄が必然的に、埋もれるべくして埋もれていったのか否かについて、適切な態度による吟味と検証とは手つかずにされたまま、作家の没後六〇年が経過しようとしている。
 福島県内にかぎってみても、厳として彼は無名である。郡山市にある久米正雄記念館、三春町の歴史資料館、県内のあらゆる図書館に頼っても、彼に関する資料が見つかることはなく、作家として見直されるべき作家であるのか、否か、その判断自体がかつて成された形跡がない。つまり当時彼の周辺にいた仲間たちを除いて、彼の小説を読んだ者がほとんどいないわけであり、一介の読書家として信じがたいことに、彼は言葉の字義通りに「無名の作家」なのである。
 面白いことにと云うべきか、あるいは「それだから」とあきれるべきか、鬼生田貞雄当人の生涯および作品を展望した時、挫折した文学者としての敗残感や強い屈託を、そこにはあまり認めることができない。彼の小説は文芸同人誌に発表されていたが、趣味としての同人の集まりに甘んじて、「文壇」的なるものを過剰に軽蔑していたきらいもない。晩年彼は「エロ文学が賞の候補になるなんてね……」と友人にこぼしているが、これにせよ、時代の趨勢に対する透明な失意の感情を匂わせてはいるものの、あくまでも自前の小説を書く営みに忠実であったから、という印象を私は持つ。
 彼の生涯を客観的にみた時、私たちは彼を幸福な人間であったと言い得る。仲間に、妻に、金銭に恵まれ、一人息子に優しく接した。勤めていた出版社を退職後、同志たちとともに発表の場を設け、旺盛に執筆をし、一人息子が大学を卒業した頃、立派な家を構えて大作を書く環境が整った――その時機に死を迎えたことのほかを除けば、彼の人生は相対的にみて、順調であった。そして作家として物足りない、どこか不安になるまでに、彼は対人関係の面で円満であった。同人雑誌の「参謀長」としての強みもそこに働き掛けただろうが、だれもが彼を慕った。彼は堂々と生きた。酒を呑んでも、誰の陰口も叩かなかった。仲間の誰からも好人物として頼りにされた。だからそれをただ「物足りない」、「不安」とのみ片づけたのならば、片面だけをみていることになるであろう。人柄の円満さは、同人雑誌の「参謀長」の立場に由来した、責任感の表れであった。そしてなによりもそれは、ひとたび彼がものを書きはじめた時、苦悩多き編集者時代に培い、同人仲間を束ねながら養い続けた作家としての彼の一つの資質であった。彼は組織的に雑誌を作るための治者としての資質が生きた、大きなスケールの小説を書いた。死の時が来るまで、彼は充実した人生を生き、かつ野心的であることから逃れなかった。

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福島県生まれの戦後作家の唯一の評伝を収録(第73回福島県文学賞入賞)。石上玄一郎らとともに作った同人雑誌から幾人かの芥川賞作家を輩出。ベストセラーを多数出版して、戦後の二見書房の復興に貢献。収容所文学、地元福島県を舞台とした小説でも傑作を書き残すも、地元の福島県内ですらまったくの無名の作家――それが鬼生田貞雄です。

福島県生まれの小説家、鬼生田貞雄についての文章をまとめています。評伝「鬼生田貞雄の文学」は一章部分のおわりまで無料で公開しています。この作…

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静かに本を読みたいとおもっており、家にネット環境はありません。が、このnoteについては今後も更新していく予定です。どうぞ宜しくお願いいたします。