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不安解消ノート

 最近は、何にでも心を揺さぶられる。
 揺さぶられて、ぶれて、傾いて、落ちる。
 自分とは何なのか、ふと思う。

 この下向きな感情には多分理由があって、私が何か誤った考えをしているのを食い止めようとしているのだろう。
「そんな事思わなくていいんだよ」
 というサインだ。
 しかし私は今、何を考えているのだろう?

 たとえばそれは、一抹の不安だったりして。
 何か少し、寂しいような、悲しいような、そんな気がして。
 でもそれはあえて自分が「寂しくなろう」「悲しくなろう」と無意識に選んだ感情のような気がする。
 もちろん、表面的にはそんなこと望んでないの。そんな悲しい感情は感じたくない。
 でも、どんな気持ちも感情も、自分で選んで好きなだけ感じることができるんだろうなと最近は思う。なので、冷静に見つめる。
 この記事は、その過程を淡々と書くことで心休まる気がして、書き始めた。

 簡単に言えば、私は「寂しくなりたい」のだ。
 甘美でしょう。まるで物語の主人公みたいで。
 物語の主人公は、何か悲しいことがあってどん底に落ちても、そこからとびきりの幸せになるお話が用意されている。
 でも間違うこと勿れ。
 彼ら彼女らは、ただ悲劇を嘆いていただけだろうか。
 その芯となる行いや思考、そして逆境に屈しない精神こそが主人公たちの特に美しいところだ。
 ただ悲しい気持ちに落ちていることが、彼ら彼女らの美しさではない。

 私が悲しい気持ちになることでどんなメリットがあるだろう。
 たとえばこの悲しい気持ちをSNSに書き連ねてぶつけてみる。一体私は、そこに何を期待するのだろうか。
 恐らくそれは、目に留めた誰かに慰めて欲しいという邪な思いがあるのだろう。
 もっと言えば慰めて欲しい特定の人がいて、その人の目に留まって心配してくれたらしめしめ、と言ったところか。
 ああ。呆れる。

 さながらそれは、釣り堀に釣り糸を垂らすようなものだ。
 欲しい魚が食い付けば嬉しいし、食い付かなければ「なんで?」と、さらに悲しくなったり悔しくなったりする。
 でもそんなの、魚は知ったこっちゃないわけだ。
 一度でも「あなたが欲しい」と声を出してくれない限り、(魚がそれに応えるかどうかは置いといて)魚は知る由もないわけなのだから。

 この下向きの感情から生み出されるものは、決して期待するようなことではない。それは分かった。
 では、そもそもこの感情の発生プロセスは本当に正しかったのか。否、正しくないから不快なのだ。
 何か悲しくなるようなことが発生した。けれど、その出来事について思考を介さず事実確認だけを行うと、実は自動的に想像されるような「悲しい想像」は起こす必要がない。

 たとえば、街中で見知った人を見掛けたとする。
 「おーい」と声を掛けて手を振ると、一瞬その人と目が合ったが、逸らされて離れて行ってしまった。
 まず誤りの思考パターンを書くなら、「あの人、私のことを確かに見たのに、無視してきた。私のことが嫌いに違いない」「ムカつく」「悲しい」。
 ここでストップ。
 上記の思考は、「事実」だろうか。
 簡単なことで、これは事実ではない。

 もう一度事実確認をしよう。
 見知った人を見掛けた。手を振った。目が合った。離れて行った。
 それだけのことだ。
 たったそれだけのことで、「あの人は私のことが嫌い」という想像は、やや思い込みが強いかもしれない。
 上記の事実からは、いくらでも多くの可能性を選択できる。
 目が合ったのは確かかもしれない。けれどこちらが誰なのか、パッと判断できなかったのかもしれない。
 あるいは、急ぎの用があってこちらの存在には気づいていながら、手を振りかえしたり会釈をする余裕すら無かったのかもしれない。
 もしくはそもそも目が合ったと思ったのはこちらだけで、相手はもっと別のところを見ていたのかもしれない。

 目に見えるものは、ひとまず事実である。
 その裏にある思惑を想定することは簡単であるし、想定することで様々な危機回避を人間は行ってきた。
 余計な気を揉んできたことも否定できない。
 であるのであれば、その「余計な気」を揉まなければいいだけの話だ。
 思惑を想像しても良いし、想像しなくても良い。
 想像しないことで心の平穏が保たれるのであれば、想像しないに越したことはない。
 心の平穏を保つことが、実のところ難しいと同時に、とても大事だったりする。

 と、だいぶ話は脱線したが、私の心は平穏を取り戻した。
 私は思い込みの激しい部分があり、裏に垣間見える関係性にやたら固執するきらいがある。
 けれどその関係性に固執する必要があるかないかと言えば、わざわざ追いかけなくても良いのだ。
 固執しないことを選択する自由がある。
 「まあいいか。どうとでもなる」と、ちょっと適当に言うくらいで丁度良い。

 気にしすぎることが毒であれば、気にしなければ良いだけのこと。
 気にしないようにすることが難しいのは、気にしたいと思っているから。
 気にしたいと思っているのは、そうしないと不安だから。不安が不快だから、気にしたい。
 でも本当は、その不安の根っこをよく見てあげることで、不安を覚える必要がないことが分かる。
 どうして私は不安な気持ちになるの? 何を不安がっているの?
 その不安な気持ちを引き起こす想像が、単なる想像であれば不安に思わなくて良いと気付ける。不安でなくなれば気にもならない。
 感情って結構ロジカルだなと、最近は少し思う。

 おわり。

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