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短編|no.1

 バスタブのお湯に頭からそっと浸かってみた。ほんのりと温く、顔面や体の芯が徐々に温もるのを感じる。
 頬に手を添えた。体はお湯の温度を享受しているのに、お湯はこちらの皮膚をやんわりと拒絶しているように感じる。上へ上へ、早く出ていけと言わんばかりだ。
 鼻の穴から泡を二つほど出して、静かに地上へ戻った。少しの時間だったけれど、自分はここに棲むことはできないな、と結論づけた。自然と涙がふた粒落ちる。
 いっそ、魚になるか、泡になってしまいたかった。
 つんと痛くなる鼻をぎゅっとつまんで、今度は勢い良く頭からバスタブに突っ込んだ。
 いつかバスタブの底が抜けて、誰も見たことのない深海の宮殿に行けたら良かったのに。

 時は、夕方頃まで遡る。
 大学最寄りのバス停で、帰りのバスを待っていた。
 いつもと何ら変わりのない、味気のない毎日。サークルにでも入っておけば良かったなぁと、二年くらい同じことを毎日考えている。
「あっ」
 しかし、この味気のない毎日を仄かに彩る瞬間もある。
 バス停には既に数名の学生が並んでいた。その最後尾に、ひょろりと背の高い、切長の目をした学生が並んでいる。黒いバックパックを右の肩に背負い、耳にはワイヤレスのイヤホンをはめている。暑そうにシャツの首元をパタパタと仰ぎ、スマホをじっと見下ろしていた。
 彼とは同じ学部だが、あまり言葉を交わしたことはない。時々同じグループになって課題をすることもあったけれど、恥ずかしくて声を掛けることはできなかった。彼の切長の目に見つめられると、どうしようもなく頭の中が真っ白になってしまうのだ。
 しかし、今日は同じバスだ。私が今勇気を出して、彼に話しかけるのはどうだろう。もしかすると、少しは仲良くなれるかもしれない。
 邪な思いと、ありもしない未来の想像に目の前がキラキラと瞬いた。まだ、話しかける勇気は無い。
 彼が私に気付いて、話し掛けてくれれば良いのに。
 そんな、他人任せの願いが喉を出かかった。
「あれ、みっちゃんも同じバス?」
 その時、背後から声がした。もちろん、彼の声じゃない。
 振り向くと、自分よりも頭二つ分程背の高い男が立っていた。ガタイの良い、幅広の肩越しに太陽が見える。まるで夕日を背負っているかのようで、眩しかった。
 彼は同じ学部の谷野(タニノ)だ。身長は優に180センチを超えている。その上、眩しいほどの金髪だ。どこを歩いていても、その目立つ見た目は隠せないだろう。彼とは子供の頃からの付き合いになるが、できることならあまり大学では関わりたくなかった。なにぶん目立つのだ。
 列に並んでいた他の学生たちが谷野の大きさに若干怯えつつ、困ったようにこちらを見ていた。谷野が列に割り込んできたと思われているのだ。
 道路の向こう側にバスが見えたので、慌てて谷野を仰いだ。
「谷野。駄目だよ。ちゃんと並んで」
「え? 並んでるけど?」
「割り込みになってるよ。ほら、先に並んでる人がいる」
 谷野が私の横をちらりと振り返った。おずおずと見上げている他の学生たちの列を見て、谷野は「あちゃー」とわざとらしく頭を抱えた。
「わあ、本当だ。ごめんなさい!」
 谷野が大きく頭を下げたその時、乗客の乗っていない空っぽのバスがバス停に停車した。
 彼に構っていられない、とバスに向かって一歩踏み出した……が、なぜかその足はバスから離れていく。他の学生たちがちらりとこちらを一瞥しながらバスに乗り込んでいく。
 何が起きたかといえば、谷野が、私の腕を掴んで列の一番後ろに向かって引きずっていたのだ。その力の強さたるや、一歩間違えたら宙にでも浮いてしまいそうな勢いだった。
 最後尾に到着し、ぽんっと肩に手を乗せられる。
「ほら、これで良いだろ」
 何が良いのか全く分からなかった。上を見上げると、谷野の邪気の無い笑顔が視界いっぱいに現れて、思わず大きな溜息が出た。
 二人でバスに乗る。背後で扉が閉まった。
 バスの中は既に満席だった。一番手近な手すりに掴まって、揺れに備える。
「これは、座れんな」
「あんたのせいじゃん」
 バスが発車した。始めに一際大きく揺れる。慣性の法則を身をもって体感していると、谷野が肩を掴んできた。何事かと見上げると、いつもの何も考えていないようなつぶらな瞳がこちらを見下ろしていた。
「なに?」
「いや、なんか、コケちゃいそうに見えたから」
「平気だよ。ありがとう」
 肩に添えられた谷野の手をぽんぽんと叩く。
 ふと、そんな谷野の隣に立っている人物が目に入り、はっと息を飲んだ。
 切長の目の、彼だった。手すりを軽く握り、好きな音楽でも聴いているのか、少し上機嫌そうに窓の外を眺めている。こちらには気付いていないようだった。
 どくん、と胸が高鳴る。バスの揺れる振動すらも鼓動の一部ではないかと錯覚してしまう。視界に映る彼以外の景色は、白く濁った煙のように見えなくなってしまった。
 今まで彼をずっと観察していたから、彼が降りるバス停も把握している。確か駅前の停留所より、二つほど手前だったはずだ。
 バスという狭い空間の中で、これ程までに近付ける機会はそうそう無い。可能であれば、彼と一言でも言葉を交わしたい。
 食い入るように、じっと彼のことを見つめていたからか、谷野が若干訝しがったらしい。「おーい、みっちゃん」と呼びながら、私の目の前に手をかざす。彼が見えなくなった。
「もう。やめてよ」
「何見てんの?」
「関係ないじゃん」
 突き放すようにそう言うと、谷野は少しムッとしたようだった。私の目線の先を確認して、同じ学部の学生がいることにようやく気付いたらしい。
「三宅(ミヤケ)じゃん」
 ぽつりと、そう呟いた。
 その名前を聞いただけで、鼓動は更に早まったようだ。耳の奥の血管が、どくどくと音を上げているのが聞こえる。
 しばらく誰も喋らなかった。バスのエンジンが唸る音と、道路をタイヤが駆け抜けていく音だけが、やけに大きく感じた。
 ややあって、谷野が息を吸ったのが聞こえた。刹那、
「三宅ぇ! 同じバスだなんて、珍しいなぁ!」
 沈黙をぶち破る大声を上げて、谷野は三宅君の肩に腕をぐるんと回した。どわはは、と笑っている。バスの中にいた誰もが、迷惑そうにこちらを一瞥した。
 私は恥ずかしさと困惑がない混ぜになった、真っ青な顔をして二人をぽかんと見つめていた。
 当の彼はと言うと、何が起きたのか理解できていなかったらしい。切長の目を見開き、イヤホンを外して谷野を振り返った。
「……え、谷野君?」
「あ、俺のこと分かるの?」
「分かるも何も……」
 君って目立つから、とぽつぽつと三宅君は小声で言った。相当驚いたらしく、胸に手を当てて深く呼吸をする。
 「びっくりさせて悪かった!」と、異常に明るい調子で谷野は言い放ち、くるっと私の方に向き直った。目が合って、どきっとする。
「佐々木(ササキ)もいるんだぜ。同じ学部だから、顔くらい知ってるだろ!」
 三宅君も私の方を向く。目が合ってしまった。
 恥ずかしくなって少し目を逸らしつつ、「どうも」と小さく会釈した。全くもって可愛げのない自分に嫌気が差す。
 そんな私に対しても、三宅君は目を細めて微笑んだ。
「佐々木さんのことも知ってるよ。何度か同じグループで課題したから」
 瞬間湯沸かし器の如く、顔面が真っ赤になるのを感じた。
 あんなに話し掛けようと思っていたのに、いざ目の前で会話ができるとなると息ができない。心臓が口から飛び出しそうだった。
「そう言えば、最近はあまり一緒に課題してないけど、元気してた?」
 ああ、神様!
 目が潤んできた。泣くわけにはいかない。言葉が出ず、ぶんぶんと首を縦に振るだけで精一杯だった。きっと、私の顔も耳も首も、茹で蛸のように真っ赤だったろう。
 その後は、谷野と三宅君がぽつぽつと話をしていたのを聞いていただけで、会話に参加することはできなかった。できたとしても、きっとまともに受け答えできなかっただろう。そんな自分がなんだか恥ずかしくて、格好悪くて、更に嫌いになっていく。
 バスの揺れ方が、緩くなった。ふと窓の外を見ると、前方に駅が見えた。最終停留所だ。
 三宅君を見上げて、勇気を振り絞って声を絞り出した。
「あの……降りるバス停、過ぎちゃったんじゃない?」
 おずおずと尋ねる私に、三宅君はほんの少し不思議そうな表情をしたが、窓の外を見て「ああ」と呟いた。
「大丈夫だよ。今日はこれから約束があるから」
 彼は、目尻を下げて柔らかく微笑んだ。
 女の勘というものがあるのなら、今この瞬間に感じた胸騒ぎのことを言うのだろう。ざわり、と心臓が粟立った。
「あ。分かった。今からデートだろ」
 頭の芯を、鉄のフライパンでカーンと殴られた気分だった。指先が急激に冷たくなるのを感じる。
 茶化すような調子で谷野が発した、「デート」という言葉がぐさりと胸を刺す。顔が引き攣った。笑顔を保てない。
 一体、誰が誰と、デートだって?
 三宅君は困ったようにはにかんだ。
「デートって……そう呼んで良いのか分かんないけど」
 女だ。直感が叫んだ。
 三宅君は今から、私の知らない女に会うんだ。
 その瞬間、つい先ほどまで鮮やかに色づいていた世界が、急速に色を失っていった。花びらがぱらぱらと落ちるが如く、留まらず、重力に従って色が落ちていく。
 二人の会話がどんどん遠のいていく。重い蓋を耳にはめられたみたいに、何の音も聞こえなくなっていった。
 その後は、どう帰ったのかもあまり覚えていない。いつ二人と別れたのかも、何も。

 長風呂をしていた。二時間ほど経っていた。
 体は泡にはならなかった。もしも消え失せてしまえたら、このちくちくと不愉快な、棘の抜けない心臓の痛みも多少は楽になったのかもしれないのに。
 寝間着に着替えて髪を乾かし、スマホを手に取る。通知が来ていた。
 着信三件。全て、谷野だ。
 一体何の用だろうと、掛け直す。コール一回目で、谷野は出た。
『みっちゃん、聞いてくれよ! 三宅の彼女さん、すんごい美人でさぁ!』
 開口一番が、それだ。
『俺、絶対三宅の彼女見るーって粘って、彼女が来るまで三宅と喋ってたんだけどさ、すっげぇ派手な見た目の人が来たんだよ。まさかそれが三宅の彼女さんとは思わんじゃん! 俺、マジでびっくりしちゃって、』
 通話を切った。
 スマホを強く握りしめながら、自室に入る。そして、力一杯ベッドにそれを叩きつけた。
「そんなの、聞きたくないっ……!」
 スマホはベッドの反発でバウンドし、勢いはそのままに、近くの棚の角にぶつかった。嫌な音と共に、ごとりと床に落ちる。画面は割れていた。
「本当に、何よ。最低」
 涙は出なかった。
 湯船の中に、私の水分を全部置いてきたのかもしれない。からからに渇いた私だけが取り残された。
 スマホは拾わずに、ベッドに潜り込んだ。
 バスタブが駄目なら、ベッドのマットレスで良い。深く深く沈み込んで、どこか分からないところへ落ちてしまいたい。もう二度と、這い上がれないような底の底へ。
 目を閉じる。闇の中。沈む自分を想像していたら、いつの間にか眠ってしまったようだ。
 非情にも、朝が来た。

 割れたスマホの画面が何度か明るくなった。通知が来ていたらしい。
 私はと言うとベッドの中に丸まって、ぐれていた。友人たちに講義の代返をお願いすれば良かったのだが、その気力も無い。
 そんな気持ちなのに、体は通常のリズムで動こうとする。腹が空腹を訴えて、細く長い音を鳴らした。
 瞬間、同じタイミングでチャイムが鳴った。
 一緒に住んでいる家族は皆、外出してしまっている。チャイムを無視すると、また鳴った。それも無視すると、やはりまた。
「みっちゃん!」
 声がした。窓の外から、私を呼ぶ声がする。
 掛け布団に包まれながら、芋虫のような見た目でのそのそと窓辺に向かう。二階の自室からひょいと眼下を見下ろすと、谷野が腕をぶんぶん振っていた。
「体調悪いんかと思って、見に来た! 入れて!」
 今、一番顔を見たくない人間だ。
 表情を取り繕う気にもなれず、眉間を顰め、口をへの字に曲げながら「かえれ」と唇を動かした。しかし谷野は分からないと言った顔をして、「入れてってば!」と大声で言う。近所迷惑も甚だしい。
「なんなのよ」
 窓辺を離れた。寝間着からラフなTシャツに着替えて、寝癖頭はそのままに、玄関扉を開ける。先程と同じ、谷野が笑顔で腕をぶんぶん振っていた。
「体調悪そう。元気?」
 答えるのも馬鹿馬鹿しくて、踵を返す。それを合図に、谷野は遠慮なく我が家に入ってきた。
「あー、涼しい」
 谷野をリビングに通して、ソファに座らせた。冷蔵庫の中にあった麦茶を、量産された安いガラスのコップに入れて出してあげた。
「おお。サンキュー」
 外はよほど暑かったのかもしれない。
 谷野の、筋肉の浮き出た首筋を汗が一筋流れた。服に吸い込まれる様子をじっと眺めていると、麦茶をぐいっと飲む彼の喉仏が上下するのが見えた。結構日焼けしているなぁ、とぼんやり思う。
 私も喉がからからだった。谷野に出したものと同じコップに麦茶を注いで、ソファに向かう。
「みっちゃんさぁ」
 コップを持って谷野の隣に座ろうと腰を屈めると、谷野は座り直しながらこちらを向いた。
「三宅のこと好きだろ?」
 あまりに直接的な物言いに思考が停止した。手からするりと、コップが落下していく。幸い、カツンという音は立てたもののガラスが割れることは無かった。無論、中身の麦茶は全てこぼれ、リビングラグに吸い込まれていった。
「あーあー、濡れてるよ。みっちゃん、雑巾!」
 なおも呆然としている私を見かねて、谷野はダイニングテーブルの上に置いてあったティッシュケースを丸々持ってきた。中身を素早く取り出して、麦茶の染みたラグと、その周辺のフローリングを拭き始めた。
「……やっぱり、分かりやすかった?」
 やっと出た言葉がそれだった。麦茶を飲み損ねたので、声が掠れている。
 谷野は麦茶を拭き取りながら、顔を上げずに「うん」と言った。
「あそこまで顔を真っ赤にしていたら、鈍感な俺でも気づくよ」
「ああ……鈍感な自覚、あったんだ」
 ソファの上で三角座りをし、頬に手を当てる。今なら涙が出そうだった。鼻の奥がつんとする。目元がじくじくと熱を帯びていくのを感じた。
 すっかり後始末をしてくれた谷野は、改めてソファにどすっと座った。何も言わずに、寝癖のついた情けない私の頭を撫でてくれる。そのまま、手櫛で髪を梳いてくれた。
 子供の頃から一緒にいたのだ。谷野に触れられることは慣れている。けれども、今まで彼がこんなに優しく髪を梳いてくれたことがあっただろうか。
「なんかムカついて」
 沈黙を破って呟いた谷野の言葉は、彼らしくなかった。あっけらかんとした平和主義の男が、「ムカつく」などという言葉を発したのを見たことがなかった。
 驚いて顔を上げる。目の前に谷野の顔があった。いつものへらへらとだらしなく笑っている顔ではなく、感情の読めない無表情だ。その瞳の中に、自分が見える。
「三宅のこと悪く言うつもりないけど、なんかスカしてるというか。あいつ、帰り際に言ったんだよ」
「……何て?」
 珍しく、谷野は顔を顰めた。
「『佐々木さんて可愛いね』だと」
 また、耳に蓋がはめられた気がした。頭の奥がぐわんぐわんと揺れている。
 知らない派手な女の手を取りながら、「可愛いね」とこちらを流し見て微笑む三宅君の姿が想像できた。決して、その女の手は離さないのだ。いくら「可愛いね」と言おうと、こちらが追いかけようと、きっとその手は離さない。
 気付いたら、三角座りをして縮こまっていた私を、谷野の大きな体が覆っていた。抱き締めている、と言っても良かった。
 ほんの少し汗ばんだ肌が私の肌に張り付く。昨日の湯船に浸かった時とは違って、皮膚同士に拒絶の意思は感じなかった。
 むしろ、少しホッとするような。
「瑞季(ミズキ)」
 名前を呼ばれた。
 一瞬だけ、心臓が胸の中でジャンプした。
「俺はお前の味方だから」
 思えば、谷野はずっとそうだった。腹の立つことも多いけれど、一度だって見捨てられたことはなかった。だから、いつだって安心してわがままな態度が取れたのだ。
 声が震えないように、短く「うん」と頷く。抱き締める腕の力が、ほんの少し増した。
 そんな些細なことが理由もなく嬉しくて、私は谷野の腕の中で少しだけ泣いた。

End.

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