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夜中の書き殴り

 時折自分のことが死ぬほど嫌いになることがある。
 どうして頑張れないの。もっと努力しろよ。出来損ない。ばか。能無し。間抜け。
 自分のことを、言葉でめためたに刺しまくる。
 自分というのはあまりにも出来が悪いので、なんとか「罰」を与えることで赦しを乞おうとしてるのだ。
 ……誰に?

 私は仕事が好きだ。
 毎日やりきったという達成感や、明日も頑張るぞというやる気に満ちている。
 けれど、ある意味それすらも私が自分に与えた罰なのだと思う。
 出来が悪いのだから人の何倍も頑張って頑張って頑張って頑張って生きていかないといけないのだと。
 楽をしてはならないと。
 他者の幸せをただただ願い、自身の幸せなど後回しにしろと。
 階段の上から下を見下ろして、なんだか納得して軽い笑いが出た。
 私は、恐らく不幸ぶってる自分が好きなのだ。
 与えられない、得られない、周りを羨んで、そんな自分に嫌悪して、見るべきものを見ずに目を背けて、短絡的に集中できる仕事に打ち込むことで、自身の居場所を囲ってる「ふり」をしている、そんな自分が好きなのだ。
 可哀想で、可愛くない。

 恋愛の話をしよう。
 私は、今までお付き合いしたお相手に対して良い彼女であったかと言われると、否と答える。
 なにぶん、私は「彼氏」や「彼女」や「恋人」や「カップル」と言った言葉を自分に当てはめると気分が悪くなる。
 言葉では「彼氏が欲しい」と言うけれど、実を言えばそんなものは存在しない。
 言葉を悪く、誤解を与える言い方をするなら「都合の良い男友達が欲しい」と言うようなものだ。
 無論、私のようなものがそんなことを口に出せば、石を投げられるに違いない。
 鏡を見よと命じたい。この身なりでそんな我儘な要求ができるわけがないだろうと、自分の頬を殴る。

 恋愛は、たぶん嫌いなんだと思う。
 ここに書いたか忘れたが、初めてお付き合いした人がモラハラ彼氏だった。当時、初耳だなあと思っていた言葉である「デートDV」を、自らが体験するとは夢にも思わなかった。
 内容は端折るが、過度な束縛の酷さに自傷行為も行い、善悪の判断や倫理観、恋愛観、貞操観念に若干傷がついて、それを今も引きずっている気がしている。
 あの頃の傷が癒えることは無い。
 今はまだマシだけれど、「愛」と言う言葉にひどく拒絶反応を示していた。事あるごとに発作的に発狂して、涙と震えが止まらなかった。
 もう少し言うなら、当時は人間として扱ってもらえなかったと感じているので、さながら犬か何かの穴か、そんな程度の低俗な、人間以下の存在だったから。
 ああ。ちょっと踏み込むと、また見境なく気持ちが落ちそうなので、ステイ。

 その時に相手に言われたのだ。
「正直言うと、全然お前可愛くないで。我儘やし、偉ぶってるし、自分が特別な存在だって勘違いしてるやろ。全然そんな事ないからな。お前厨二病やん。俺はそんなお前と付き合うてあげとんやで」
 衝撃的だった。心を傾けて、身を預けようとしている人に、そんなことを言われるだなんて思わなかった。
 それから私は、人は心に本音を隠して生きてるのだとよくよく認識した。思ってるのに言わない。なのに愛想よく振る舞ってくる。
 人間とは嘘つきばかりだ。私もそうだ。嘘ばかりついている。本当はこんなに醜いのに、どうして綺麗に見せたがるのか。

 私は飽き性だ。興味のある物事を、自分が満足するところまで楽しんだら飽きて捨ててしまう。
 今までの恋愛についても、感じてきたのは「恋人を消耗品としか思っていない自分」だった。
 本当のところはどうなのか分からない。けれど、搾取するだけ搾取して、飽きて、不要になったら捨てるようなことをしてるのではないかと思っている。
 搾取とは言うが、決して金銭や物品の話ではない。私が搾取してるのは、有難いことに私を好いてくれているその「気持ち」だ。
 その気持ちというものを、私は都合よく搾取して切り捨てている。そうとしか感じられない。

 例えば付き合い初めの頃。
 まだピュアな気持ちを持っていた頃に相手に感じた感情は、「興味深い。この人の素顔を知りたい」だった。
 少し付き合いを重ねて、ある程度相手の人となりを知り、相手もこちらに気持ちを許し始めた頃にふと思う。「この人は、何をされるのが嫌なのだろう。嫌がるそぶりや顔を見てみたい。あわよくば怒らせたい」。
 だんだん相手のことを面倒に思い、嫌われるようにしむけ出す。相手は悲しんだり怒ったりする。それを観察する。そして結論、「ああ、なんて女々しい人。行き着く先が面白くない。つまんない」と切り捨てるのだ。
 まるで復讐のようだ。
 過去に何度か言われた。「気持ちがイコールじゃない」と。
 私の気持ちと相手の気持ちを天秤にかけると、圧倒的に相手の気持ちの方が重く、私は軽いのだ。
 自分で書いてて思うけれど、やはり石を投げられても文句は言えない。バッシングされてしかるべきだ。もはや病気かもしれない。

 自分が振られようが振ろうが、ダメージはあまりない。
 当然だよね、なんせ私は出来損ないなのだから。
 そんな卑怯な免罪符を振り翳して、己を正当化している。目も当てられない。
 私は人の愛し方がわからない。
 長らく、苦手な「愛」について考察し、思考を続けてきたけれど、答えが見えない。
 無償の愛とは何なのか。愛されるとはどういうことなのか。愛なんて、慈悲と忍耐に満ちた人のみが行える崇高な行為ではないか。
 お別れをした後に強く思うのは、「トラウマになったらごめんね。でも、私以外の女性の方が数百倍も優しくて愛してくれるに違いないよ。幸せになってね」だ。他人任せも甚だしい。
 私は人を幸せにする覚悟も資格も責任もない。寄りかかられるのが嫌だ。自分の足でしっかり努力して生きて欲しい。
 ずっと肩を擦り合わせてなんて、人は歩けないんだから。

 自分に恋人ができない理由は、自分が一番わかっている。
 性格的な面がとにかく大きい。他人を怒らせたいと思うのは、試し行動の一つなのかもしれない。それは結局、自分が愛されているかわからないから。
 自分が愛されているかわからないと言うのは、愛されている状態がわからないから。愛を受け取ることを自分が拒否してるから。
 けれど思うに、試し行動をした上で側にいられても、私は困るのだろうな。
 世界が縮まる気がして嫌なのかもしれない。
 よく言う「二人だけの世界」なんてものを自分が体感したくない。そんな狭い箱の中にいたら、きっと窮屈で呼吸ができない。
 もしかすると、世の中には「二人だけの世界」が一つの宇宙のようなもので、その世界観は無限なのかもしれない。だとすれば、きっと私なら、真空で呼吸ができなくて死んでしまうに違いない。それは、なんと素敵なことか。息ができないなら死んだ方がマシだもの。

 つらつらと無意味な言葉の羅列を続けたけれど、テーマもなければ結論もない。
 ただの書き殴りだ。書き殴ることで、少しはさっぱりしただろうか。
 読み手からするとひどく胸糞悪かったかもしれない。それは本当に申し訳ない。こう言う人間なのだと許して欲しいけど、許さなくても良い。あなたと私はきっと気が合わない。

 狭くて窮屈な金魚鉢から、終わりのない大海へと泳ぎ出せるほどの出会いと経験を求めている。
 知らない場所に行くのは怖いけれど、楽しい人生の方が生きるよりも大事だから。

 こう言う文章を書く自分も心底嫌いだ。

 おわり。

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