書物書簡 七通目 安部公房『方舟さくら丸』

2021年3月21日

沖鳥灯さん、瀬希瑞世季子さん、Takuさんへ

 近頃はあまり本を読めず、投稿が遅れてしまったことを初めにお詫びしておきます。「最近は全く本を読めない」という言葉を会話の度に繰り返していて感じたのですが、自分にとって元より読書という行為は日常的ではなく、本を読むことが可能なコンディションというのは特異な状態であるように思えてきました。


 小説の主人公<モグラ>は物語の終わりに、来るべき核戦争に備えて造り上げた地下シェルターを脱して、透明な街の光景を目にする。人も、街も、そして自分でさえも透明な風景。

 それと対置されるのは、物語の初めから主人公が貫いていた選別の目線である。彼は己が居住する地下採石場跡を方舟と称し、定期的に街に出ては「生きのびるための切符」である乗船券を受け取るに相応しい人間を探している。結末とは正反対に、彼の目に映る人々はみな選別される対象なのだ。

 同じく安部公房の作品である『箱男』にも、似たような問題が通底していた。見ることには愛があるが、見られることには憎悪がある。だからこそ彼らは箱を被ることで、自らが一方的に見る側に回ろうとした。それに対してモグラは自分の姿を隠すことはしないものの、「生きのびる人々を選別する」というように見る側としての立場を強化することで、自らもまた見られる側であることを忘れようとしたのである。

 『箱男』は2ちゃんねるを連想させるが、『方舟さくら丸』はTwitterのようだと思う。フォローするアカウントを決める際の目線はまさに選別と変わらない。いったい誰が自分のタイムラインに相応しい人間なのかを定め、フォローすることで乗船券を手渡す。鍵垢やリストにまでなるとそれは更に近似していくだろう(利用したことはないが、もしかしたらミクシィなんかの方が近い例なのかもしれない)。

 SNSに限ったことではなく、選別の目線は常に生活の中に存在している。モグラのそれやインターネットは可視化されるためにそれが際立つだけであって、私たちの日常にだって、どんな人間を付き合いを持つか、どんな人間が自分に相応しいかとフィルターをかける習性は備わっているのだ。

 しかし神でもない人間が、そのように生き残る人々を選別することはどこかグロテスクでもある。モグラがそのことを明瞭に自覚するのは、自らの写し鏡でもある父親<猪突>が創設した組織「ほうき隊」の人々を目にしたことによる。

 ほうき隊は平均年齢75歳の老人グループで、人々が寝静まった夜中から朝方にかけて、軍歌を斉唱しながら街を清掃する奇妙な団体だ。彼らは核戦争の勃発を信じ、その日のためにやはり生き残る人々を選別している。そのプロセスの中で最も醜悪なのが「女子中学生狩り」だ。人類が生存すればそれで良いというものではなく、子孫を残さなければ方舟としての役割は果たせない。そのため彼ら老人連中は、女子中学生を拉致することで、子種を残そうとしたのである。その姿はまさしく、核戦争を信じ、サクラに同伴する女の尻を追い回していたモグラと重なるものである。

 だからこそモグラは最後に、彼らと、そして己の姿を俯瞰する透明な視線を手にした。「誰が生きのびられるのか、誰が生きのびるのか、ぼくはもう考えるのを止めることにした」結果として、彼は初めて、自己と他者が等価地である世界に辿り着いたのである。


 一見してポジティブな結末であるように思える。しかしそれが本当に良いものであるのか、疑問を差し挟む余地があるだろう。

 シェルターを爆破し、ほうき隊に支配されたその場所から脱したモグラと対を成す、サクラの選択がそれを示唆している。モグラは「核戦争なんて出まかせの嘘っ八なんだ。嘘を承知でこんな所にいられるわけがないじゃないか」とサクラに対してもシェルターからの脱出を促すが、対するサクラは「何処でどう生きようと、たいして代り映えはしないよ。それに本来、嘘を承知ではしゃいでみせるのがサクラだろ」と返してその申し出を断る。そしてこの本のタイトルには、モグラではなくサクラの名前の方が冠されているのだ。

 思うに、モグラはかつての自閉的で排他的なバイアスから抜け出し、世界を正しく見つめることが可能になったものの、世界と触れ合う方法については未だ獲得していないのではないだろうか。なぜなら、自己も他者も同様に透明である世界においては、まさしく「何処でどう生きようと、たいして代り映えはしない」からだ。透明な世界と聞いて思い出すのは『ベルリン天使の詩』という映画に描かれる、天使の目に映る灰色の世界だ。彼らは美しく平等な目線で世界を鑑賞することはできても、それと触れ合うことは決してない。そこには本質的な空虚が宿っている。

 サクラの生き方は、その虚しさに対する一種の解決になりうるだろう。彼は当初のモグラやほうき隊の人々のように嘘を本当だと信じ込むのでもなく、嘘を嘘だと見抜いて冷笑的になるのでもなく、嘘を嘘だと知ってなおはしゃいでみせるのだ。虚妄だと知って何かをやり過ごし続けることは難しいが、彼にとってはそれすらも問題にならない。なぜなら桜とはあらかじめ散ることが決まっているからだ。彼は同伴する女の談によると、寿命が半年しか残されていない。彼自身にその真実は知らされていないようだが、おそらくそれを知ろうが知るまいが、彼の生き様に変わるところはないだろう。

 思い込みに支配された世界、そこから抜け出した透明な世界。更にそれを超えて世界と触れ合うにはどうすればよいか。嘘を嘘だと承知で享楽的に生きるサクラの姿に、そのヒントを幾分か見出せるような気がした。

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