日記(2020年6月14日)

 時間はその気になればいくらでも捻出できるはずだが、気力のリソースを食われて何もできずに終わる日々が続いている。予定が入っていること、忙しいことの難点はそこにある。ただ時間を使うだけでなく、日に使えるエネルギーまでもがそこに持っていかれるため、例え数時間の予定だとしても、それを熟したらもう何もできなくなっていることが多い。カレンダーを隙間だらけにするか、或いはエネルギーの総量そのものを増やす必要がある。先のことを考えると後者に専心すべきなのは明白だが、それは幾度となく挑戦して挫折し続けた道でもある。

 おそらく一生このままだという諦観に心を支配されている。今よりも少し若い頃には、自分のエネルギーは無尽蔵に湧いてくると錯覚していて、そのせいで心身が限界に達することもあった。けれど同時に、展望に満ちた日々でもあった。今はどうだろう。一日に私ができることを並べてみると、生涯をかけても成せることなどたかが知れている。

 それでも、埃程度の何かを集めて、いつかは山になることを期待している。

 今日は映画を見た。天気の子。既に何度か視聴しているため、軽い気持ちで届いたBDを再生したら、いつの間にかエンドロールを迎えていた。新しい発見などは特になかったけれど、これまで自分がこの作品に対して感じてきたことの断片が次々に湧いてきた。復習のような感覚。

 きっと20年後にもこの作品は鑑賞されているのだろう。『ほしのこえ』なんて18年も前の作品なのに、今でも受け継がれている。140億円の興行収入を誇る『天気の子』も、きっと金曜ロードショーなんかで放映されるはずだ。その時代の人間にとって、新宿の街をけたたましく走るバニラの求人トラックは、何のことだかさっぱり分からないだろう。時間の淘汰の中でトラックの騒音が意味を失えど、それを孕んだ作品そのものは継承される。何故だかそんなことが感慨深かった。

 本は少しだけれど読んでいる。先週は『日曜日の人々』を、今日は『教養としての宗教事件史』を読み終えた。前述のエネルギーの欠乏を鑑みれば、週に一冊も読めれば大したものだと思う。

 音楽を聴く時間は減っている気がする。ハヌマーンがサブスクで解禁されたので、それを聴くくらい。『Regressive Rock』はもう何度も再生した。どの曲も素晴らしいけれど、一番好きなのは「ネイキッド・チャイニーズガール」だろうか。

 借りていた本の返却、そして予約していた本を受け取るために、久しぶりに図書館まで自転車を漕いだ。この二か月で引きこもり生活がすっかり染みついてしまった身体は、それだけの運動ですっかり音を上げてしまった。甚だしい疲労を感じるが、だからこそ日記を書いた後には風呂を沸かして入浴しなければならない。丁寧な生活に必要なことはおしなべて億劫だが、面倒は大切に比例している。考えただけで疲れる話だ。

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