コトバとオト。
先日の、東京出張の思い出。
どうしても改元まえに、将門さまにお詣りしたかったの。
将門さま。マサカドサマ。まさかどさま。
あなたが怖がっているものは、なあに?
🐴 🐴 🐴
◎将門さま、その武名◎
平将門 さま。
(たいらの まさかど)
平安時代中期→
死没は天慶3年2月14日
(!あたしの誕生日→2/14!)
将門さまは関東の雄。
我が国、日本における武士のルーツともされており、
騎馬戦術のパイオニアとも云われており、
転じてジャパンホースマンたちにも畏敬されている
人物のひとりではないでしょうか。
将門さま……と、そのオトを耳にすれば、
なんだかネガティブなイメージが想起されて、
知らずに拒絶反応を示す方々が少なくないのでは。
その″畏れ″こそが私たち日本人民族が共有する、
信仰心や宗教的感覚の”根っこ”だとする考え方もあるそうですが……。
わたしは純粋な気持ちからです。
”カッコいい”、と憧れているから。
その反骨の姿に、共鳴を覚えるから。
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◎将門さま、そのヒト◎
今日、
とかく”呪い”や”伝説”に事欠かない。
なにせ切断された首が、空を飛んだ!というんだから。
同じ分野で著名な”かの学問の神様”だって、飛ばしたのは梅の樹だった。
だが、なぜ将門さまが挙兵に及んだか?
という動機や理由は……
なかなか知られていなかったりする。
将門さまの武威は、どこか任侠的だ。
彼は”弱いものの為”に、刃を振るったのだ。
その任侠的な属性をそなえる美学は、今日も逆らいがたい魅力でもって、わたしたち日本人を惹き付けつづけている。
日本の時代劇の人気筋書きだって、”強きをくじき弱きを助く”だろう?
そんな風にして当時の西国政府から、
(当時は京都、近畿が国家の中心地だった)
不当に抑圧されていた関東の民草たちの為に、
ついには国家という最高権力機関へと弓引いた。
……そういうストーリーから、将門さまの伝説は端を発して居る。
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◎『関東』、その縁起◎
ところで、
『関東』という
ネーミングの意味やルーツはご存知でしょうか?
【『関』所】の【『東』方】
……此れ、すなわち『関東』……
なら【『関』所】ってなんだ?
≪gate/ゲート/門≫
すなわち、
はじめ、ひと続きだったはずの土地に、
ここからウチが、国家の支配圏域。
ここからソトが、いわば外国/敵国
……と、分けて定義されたわけです。
その一方的な定義を押し付けられて、
『関東』と区別的/差別的なネーミング、意味づけでもって、中央権力から遠ざけられてきたのでした。
(古い言葉で『東夷』『まつろわぬ民』と記されます。
つまり
『(国家から見て、我々の)いうことを聞かない人々』
というニュアンス。
『関東』の人々は当時の日本国家にとって、とても扱いにくく、国家の運営上、非常に都合の悪い人々、その自治区だったという意味が含まれているのでしょう)
◎ウチソトのはじまり◎
日本人の空間認識やパーソナルスペース概念や心理的障壁に、ウチとソトという思想が通低している、とも云われています。
こうした歴史的、文化的背景やストーリーも、きっと現代までつらなるジャパンメンタリティのエッセンスとして、どこか・かしこかに秘されている気がしてならないのです。
その歴史のメインストリームから、いわば但し書き欄へと。何事かの意図によって、編集されてきた物語がある。そうやって編集され、その結果として封印された物語の方が、実際にははるかに膨大な情報量となるはず。
あなたは自分の誕生日を知っているだろう?
でも、世界中にあまたいる、あなたと同じ誕生日に生まれたヒトのことなんて、ほとんど知るはずがないんだから。
言葉は”読み手”というパトロンの干渉から、逃れるだけの強さを持たない。
原初からして、やはりそういうツールなのである。
少なくとも、インターネットが介在しない時勢においては。
◎コトバとインターネット、レキシとビッグデータ◎
しかしながら、インターネットの恩恵を享受する私はこう考える。
その封印された物語へ、
アクセスする鍵こそが、
やはり「言葉」というキーワードなのではないのか……?
ならば、
その物語をいつまでも封印しておきたい、
という”読み手”の戦略的思想が稼働した時、
アクセスの鍵となるキーワードは、
その「言葉」は忘却させられてゆく……”失伝”という結末を迎えるのか?
そういう”失伝”と隣り合わせのストーリーのほうが、
元来は、この世界では、圧倒的シェアであり、メジャーなのだ。
いや、そうだったのだ……と付け加えたいのだ。
「平将門さまは朝敵、呪い」
というメジャー。
「平将門さまは関東独立の騎手」
というマイノリティ。
そう並べ改めて考えた時、
メジャーとマイノリティとは、
一対の対抗的概念……
いや本当に、そうだろうか?
過去の出来事の蓄積から、歴史というビッグデータを運用できる。
だから、いまの考え方の左右レベルのバランスを、知ることができるし、
その変化をリアルタイムで上手に量ることができる。
それは今日、歴史の末端にぐうぜんに居る、
われわれだけの特権であり、まさに有難い幸福じゃあないか。
それを堪能することが、つまり”感謝する”というソーシャルじゃないのか。
所詮、わたしたちの身体はワークホースモデルだから。
脳はひとつ、目はふたつ、腕と脚は二本ずつ。
何かに特化したニッチなチューニングなんて、施されてはいない。
ヒトはそんなに、上等な生き物じゃない。
だから、じぶんや近しい人々くらいの、
一点からの、透写での、アングルだけでは、世界は視えてこない。
そんなんじゃ、今回の生涯のタイムリミット制限内では、
モノゴトはきっと、これっぽっちも理解し得ないのだ。
そして先人の方々はいずれも、同じことを感じていたと思う。
だからこそ、他者とのちがいに、日ごとに諦念を強めたのだろう。
コトバとオトによるコミュニケートを止めてしまったのだろう。
だから、他の手段をこころみてみたんじゃないかな。
たとえば戦争、とか――。
そういうシンパシーが、ふと感覚を伴った気がした。
その身勝手な体験が、いまの私に、また文字を描かせる力をくれる。
私が「言葉」に対して抱いているなにか。
″畏敬″とも重なる、その友達をつくらない感情ってやつのシルエットが。
日ごとディティールを精緻に、影は色濃くなりゆくような、気配がする。
🐴 🐴 🐴
◎『関』のシフト◎
話がちょっと、熱帯びてきた。
また昔話をすこし語ろうじゃないか。
こんな狭い日本にも、たしかに関所の文化があったことを。
そのウチソト区別の境界線に、
ゲート/関所を設けて、
国防と流通と往来を支配していたわけですね。
いわゆる歴史的なアングルから見ると、
『関』は年代を経るごとに、
東へ東へと新設されていきます。
これを称し、俗に『三関(所)』と。
※以下、Wikipedia引用※
三関
(さんげん、さんかん)とは、
古代の日本で畿内周辺に設けられた関所の内、
特に重視された三つの関の総称。
三国之関とも呼ばれた。
当初は
不破関(美濃国、現在の岐阜県不破郡関ケ原町)、
鈴鹿関(伊勢国、現在の三重県亀山市か)、
愛発関(越前国、現在の福井県敦賀市内か)の
三つを指したが、
9世紀初頭に
逢坂関(相坂関。近江国、現在の滋賀県大津市付近か)が
愛発関に代わった。
また、三関のある律令国は三関国と呼ばれた。
※引用終了※『三関』page※
要約すれば、歴史上に登場した三つの関も、
はじめは機内の、ごく限られたエリアを区別し、
境界線を護るためのゲートだったというわけですね。
しかし、三つ関は時代が経て、
・不破関(ふわのせき)=岐阜
・鈴鹿関(すずかのせき)=三重
は変わらないままでしたが、
・逢坂関(おうさかのせき)=滋賀
から
・愛発関(あらちのせき)=福井
へと。変わりました。
さらに時代が経ると、ついに三つのゲートは関東地方へ至る。
その頃になると浮上する新しいキーワードがある。
『坂東』である。
『関』の東は、『坂』の東へと変化したのでした。
では『坂』とは?
ひとつに足柄の峠(『関』静岡県)であり、
ひとつに碓井の峠(『関』群馬県)であるとされています。
この『関』や『坂』のシフトは、単なる土木建築事業の結果ではないでしょう。
明確に中央のヒトのアクションを表現している。
区別したはずの、『関』の向こう側。
自分たちが敷いた境界線のさらに遠く、『坂』の東方への視線のシフト。
未知の世界への、好奇心と支配欲求。
じつにヒトらしい関心と影響力の拡大がみられると思うのです。
この三関=岐阜・三重・福井
と再定義された時点が9世紀
(=800年~900年間)
いわば当時、まだまだ平安時代のスタートアップ時期でした。
◎「言葉」「日本語」「1/60」◎
同時期、日本は漢字を効率的に運用するツールとして、カタカナを発明し、文字と文章における刊行物・発行物の大量生産ラインを生み出しました。
あらゆる分野で言葉の改革にのせて、区別していた国中を総動員して、幅広いイノベーションを起こしていた時期でもありました。
何故そこまでの行動力が発揮されたのでしょうか?
わたしは外征失敗と、国際情勢不安と、侵略に対する恐怖心だった、
そのように考えることが、ごく自然な因果関係かな、と思っています。
「外征失敗」は「白村江の戦い」(663年)
「国際情勢不安」と「侵略に対する恐怖心」は「遣隋使」~「隋滅亡唐建国」~「白村江の戦い」~「防人制度導入」(およそ700年-800年間)
この「防人」(さきもり)は初期において、ずさんなシステムでした。
徴用対象は主に関東地方から成人男性が選出されていました。
しかし農地徴税は免除にはならず、任期に係る費用は自弁というもの。
事実上の棄民政策、東国自治体の解体工作という性格も指摘できるのでは。
労働力・軍事力の担い手となる男性を遠方に置き去りにしてしまえば、
その残された女子供は容易に取り込むことが可能だったことでしょう。
防人というシステムは東国自治体の、氏族と血統に対する侵略ではないか。
結果だけで語ると、国家の失策により、国防の危機を誘発した。
その補填を東国の人々へと押し付け、負担を強いるという政策でした。
そしてその国防という御旗の裏側では、着々と東国領地支配の政策を進めていたのではないでしょうか。
有名な防人歌の本性とは、彼らに残された最後の抵抗の手段だったのでは。
コトバとオト、それだけが行使可能な記憶媒体だったのでは。
もはや決して再びひとつに戻れない、と運命を悟って響かせたのでは……。
そのコトバとオトは、めぐりめぐって関東の人々を助く新しい力となった。
平将門さまは、そうして関東の雄となられたに相違ない。
理不尽な忍従を強いられ続けてきた、
そうして生き永らえてきた関東のヒトの感情が、
とうとう「新皇」とさえ、未踏の表現を誕生させたのではあるまいか――。
※以下Wikipedia引用
規模
防人が東国から徴兵された時期、その規模は2000人程度を数えた。738年(天平十年)の「駿河国正税帳[4]」によると、この年駿河を経て東国に帰る防人の人数は1083人で、その内訳は伊豆国22人、甲斐国39人[5]、相模国230人、安房国23人、上総国223人、下総国270人、常陸国265人であった。他に防人を出していた遠江国、駿河国、武蔵国、上野国、下野国からも同規模の防人が出されていたと推測すると、さらに1000人程度が加算され、合計すると2083人となる。[6] この防人の規模は同年の「周防国正税帳」によっても裏付けられる、防人は3班に分かれて帰郷しており、中班953人、後班124人が記録に残っている。前班の人数は残っていないが、費やした食糧より1000人程度が算出され、合計すると2077人となる。
防人歌
奈良時代に成立した『万葉集』には防人のために徴用された兵や、その家族が詠んだ歌が100首以上収録されており、防人歌と総称される。関東地方など東国の言葉が使われている事も多く、東歌ともに古代の生活様相を伝えている。
※Wikipedia引用終了。『防人』pageより※
水際防衛は『関』の東側へ負担させるとして、では対外政策の成果は?
当時国内はといえば、大陸から遣隋使・遣唐使を通じて輸入した仏教文化が軸となり、国家主導で日本じゅうにブッディズムブームを巻き起こしていたのです。
仏法僧を中核とする仏教文化は、経典とはつきものでした。
国家主導の仏教普及政策により、日本全国に「一国一国分寺」がインフラとして整備されたのでした。
だから50ヶ所を越える国分寺に、おなじ規格の経典や書を配布するためにとてつもない手間隙コストを要したわけですね。
お経のビジュアル、目に浮かびますか?
あの無闇にむつかしい、そして画数のやたら多い漢字オールスター感謝祭コンテスト会場を見たことがありますか?
もちろん木版印刷、活版印刷イノベーションさんの出番はまだ数百年先。
だから手書きです。
マンパワーです。
当時のお坊さん、想像を絶するブラック職場じゃないですかね。
そりゃ南無阿弥陀仏、唱えたくなるよな。
絶対どこかに恨み節のメモとか書き残してるだろう。
当時、まだインターネットなくてよかったかもしれないね。
ちなみにカタカナ発生後、次いでひらがなが誕生しています。
カタカナは実用本意から発明されたワークスワードであり、一方でひらがなは詩歌はじめアート的ツールとして誕生から役割を異にしていた……。
そんなアングルから日本語のルーツを知っていくと、なるほど、と得心することも多々あります。
そういう言葉というものに対する価値観。
そこに日本人の感性の原風景を垣間見るおもいがする。
オトを同じくしても、コトバにすれば違う。
そんな役割と使い分けが、どうやら日本語ネイティブスピーカーたる日本人の言語感覚やセンスの奔流になっていったのだろう、と。
なぜだか、わたしは無性に嬉しくなります。
だって日本語話者は、今日およそ1億3,000万人だっていわれています。
つまり、日本語をナチュラルに使いこなせるのは、日本人くらいなもの。
今日、太陽系の地球に人類は60億人を数えても、国家が200あまりも存在していても、生まれながらに日本語を使いこなせるヒトは、1億人ちょっとしかいないということになる。
わたしたち日本人は、日本語ネイティブ。
生まれた時から、死んで……その先々まで。
そのオトに満たされ、コトバを感じているイキモノなのだ。
漢字とカタカナ、ひらがな、それに外来語。
この4種をたくみに織り交ぜながら、ふしだらな言葉使いを楽しめる。
そういう1/60の、マイナーな人類なんだ。
わたしは日本語のもつポテンシャルは素晴らしいとおもう。
このわたしたちの言語は、もっと世界を、人類を。
和やかにリードしていくと、思っているよ。
◎日本語ネイティブスピーカーの、誇り◎
だから、わたしはつらい。
現代の情報過多時代に、傷めつけられ続けている同胞をみること。
それは仕方のないことだと、あきらめていることが。
そうやって翻弄されている同胞たちの様を、座して視ていることが。
「インプット」と「アウトプット」の不調和が鳴りやまない。
そういう雑音が、日本語ネイティブスピーカーの素養を劣化させていく。
わたしたちの、技巧に富む、美しい言語行使能力を確実に滅失させている。
もう、そんな雑音ばかりを耳にしないでくれ!
そうだ、わたしはとてもつらい。
これがどれほどにクリティカルで、
ステルス性をも併せ持った、
社会的・民族的病理であるだろう。
わたしはもう、自分だけが良ければいい、という考え方をやめた。
わたしはみんなといっしょに。
詠うように活きていたいんだ。
もう失ってばかりは、いやだ。
ヒトの言語能力の発達は、耳で聴きとったオトを自身の声帯で再現することにはじまるそうだ。
赤ん坊は母や父の言葉をインプットして、その語彙や抑揚や、相手の反応をはじめに学んで理解するように。
その言葉の意味を知るプロセスなんてものは、じつはもっとも遅いのだ。
それでいいのだ。
だから私は、赤ん坊に再現して欲しいと、心底から感じる美しい日本語を、尊び、大切にしたいんだ。
いつかそのオトは、そのヒトによって、きっと新しい意味を書き加えられて、想像を超えたモノゴトに進化するにちがいない。
そうやって、私の発した言葉は、いつか私自身にとっても嬉しい福音になってかえってくることだろう。
だから、わたしはあなたに言葉のたねを預ける。
きっとその言葉のたねから、あなたというヒトが豊かなオトを育ててくれると信じているから。
そうして私たちは言葉とオトによる、個とコが和合するハーモニクスで満たされる。
受け渡していこう。私たちが心地よいリズムをえらんで。
そういう世界が実現するよう、こころで祈っている。
けれど、それだけではだめだったんだ。
この平成時代は、それだけでは。
他者とのコミュニケートをあきらめて、コトバを戦いの具になどしない。
もうたくさんだ。それはもう、さんざんやったじゃないか。
だからわたしは、もう黙らない。
理想の和合と調和を実現する日まで、描き、詠いつづける。
言葉によって傷つけられた、ヒトの感性、自信、すべてに響かせたい。
言葉による、癒しと、救済をこころみる。
◎将門さま――そのオトも、永遠に響き渡る◎
「朝敵」(国家反逆者)の烙印ひとつなんかじゃ、将門さまの精神は封印なんてできやしない。
隣で近代の高層ビル改築工事が計画されても、丸の内の一角、其処の将門さまだけは変わらずに、居る。信仰心とともに今日も火が点って、居る。
将門さまは其処で来る改元、TOKYO2020をも。
きっと見守っていてくださることだらう。
令和元年吉日
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