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東京大空襲と語り部

昭和20年3月10日は、東京大空襲があった日だ。

私の住む下町でも沢山の人が一晩にして頭上から降り注ぐ焼夷弾に焼かれて亡くなった。

今は遊歩道に整備されている嘗ての運河跡の橋のたもとには花が手向けられ、小さなお地蔵さんを奉った祠にも新しい花が供えられている。

娘等が小学生だったころ、音楽の先生のお母様が、毎年その夜のことを杖をついて学校を訪れ保護者とこどもらを前に語ってくださっていた。

よく言われることだか、当時都会の子供らは来る本土決戦を前に、地方に集団疎開していた。しかし、春休みで親元に一時的に帰京していたところの大空襲だったらしい。何という巡り合わせか。

3人兄弟の末っ子だったお母様は、空襲と聞いて長兄の柔道着の帯に互いを結びつけて、はぐれないように火の海の中を逃げたそうだ。ご両親は不在にしていたそうだ。

そして、小名木川まで来ると、3人で川に飛び込み、筏状に浮かぶ丸太に捕まりながら、蛇のように這う猛火を逃れて川に身を沈め、火が去ると筏によじ登り身体を乾かし、一晩中何度となく筏の上と水の中を往復して命を繋いだそうだ。

まだ冬の残る3月の水の冷たさは、燃えさかる火の勢いで服が乾いてしまうそうで、感じなかったとおっしゃっていた。

夏のお盆にはホウロクとオガラが橋のたもとに山と積まれて、ここで亡くなった方々がどれほどいたのかを思い知らされて、自分たちの住むまちで何があったかに余りに無関心ではなかったかと、その時は思う。けれど次の朝には跡形なく片付けられて、正直、記憶からもまた次第に消えてしまう。

そしてまたお盆とかお彼岸が来る度に、ああと思い出す。多分法事とか歳時記は忘れっぽい人間に、記憶を換気するリマインダーなんだと思う。

勿論片時も忘れるなと言ってるわけじゃない。自分の二つ位前の世代の人が経験したことを、聞き取り、記憶を伝えていくことをしないと、キレイサッパリ忘れてしまったら、あの夜に帯に互いを結びつけて逃げ惑った兄弟姉妹が居なかったことになってしまうんじゃないかと

そう思う

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