想像力の限界

偉そうに
想像力だの、共感だの、エンパシーだのと
ドヤ顔で分かったようなことを書いて
小っ恥ずかしいのだけど
それは、その時の自分の見えたと思った世界だから
今日は違うと思っても
それは不思議はない。
だって私たちは生きているから。変わり続けるから。
だから消したりはしないし、
逆に自分への戒めというか
ドM的に一番上に載せ続けようと思っている。

ちょっと思いもかけない病気に見舞われて
人生の夏休みを強制終了シャットダウン的に取ることになっており

急に置かれたこの状況に
いろいろな人がいろいろな暖かい言葉をかけてくれるのだけど

圧倒的に全然違うと
そう言うことじゃないと
アナタニハワカラナイという
爆弾のような
全てを一瞬にして否定する
言葉を飲み込んでいる。

彼我の違い。
当事者と傍観者。
経験してみないとわからないこと。
全ての出来事に当事者になるには人生は短く身が持たないこと。
さらに、同じ経験から同じ答えを引き出すわけでもないこと。
自分の見たこと感じたことは
絶対に他の人とは同量同質で共有することはできないと言うこと。

だから想像力が必要なんだと思っていた。

でも、想像力をもってして
やっと相手がそれを共に語るのを許してくれるレベルに
互いの落とし所が出来ただけで

個別の体験が
他者と共有しうる位に薄まって
一般化されるのに
想像力は必要不可欠なだけで

決して想像力を過信したり
確信犯的に、オモイヤリマシタヨ、ワタシと振りかざす錦の御旗にしてはならない。

つまり想像力の先にも
及ばない河が横たわり
空白が漠と存在して
決して分かり合えないことを知ってから始まる2人の関係

多分、分かり合うこと以上に
大事なことがある
分かってほしいとカマチョにダダをこねるんじゃなくて
それでもなお、あなたを知りたいと思う二人の間に働く引力

※動画は可視化された音楽。
グダグダ目に見えないことこねくり回してんなよ!
という自分へのノリツッコミ笑。

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