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正論をふりかざすべき時

ーお姉ちゃんだったら、黙ってないと思うんだけど、私には言えなかったな

同じ区内に住み、公立中学に長男を通わせる妹から電話がかかってくる

長男の体育プールの授業での出来事。体調不良などでプールに入れない子供たちが、隅の日陰で見学していたそう。すると中年男性体育教師が

ーなんだ、お前たち、プールに入ってる子たちは、日に当たってんぞ、なんでお前たちだけ、日陰にいるんだ!日向に出てこい!とカンカンに日の照り付けるアッツアツのコンクリに引っ張り出したそうな。

まだこんな時代錯誤の昭和のスポコン教員がいるのか。軽く眩暈と絶望。

数年前、同じく区内の公立中、夏のプールの授業でカンカン照りのコンクリに見学者を正座させて子供が低温やけどして大問題になったことは、もうのど元過ぎれば熱さ忘れるを地で行っちゃってんのかな???

帰宅して見学してたお子さんも、してなかったお子さんも銘々に親御さんに報告し、それを聞いた親御さんが、チームプレーなのか、雨後の筍方式だったのか、単独犯が同時多発だったのかはわからないけど、学校に抗議の電話が殺到、校長が事実確認後、言語道断、教育的とは言えない間違った指導と謝罪したという。

ーすぐに事実を認めたんなら、良心的だよ。子ども一人死んでも調査中、事実は認められなかったって組織で隠ぺいするのが学校だから。

私は学校という組織を信用していない。一人一人の先生方には良心があるとは思いたいけど。学校という組織は子供一人一人じゃなくて、学校という形態を守るために運用されていると、子供を公立小中学校に9年間×二人預けてみて痛感している。

エピソードは枚挙にいとまないけど。一番ひどいなあと思ったのは

次女が中二の時。運動会のムカデ競争の練習時のこと。

クラスの女子を二分してチームを作った。一つはキラキラチーム。足の速い子から順に集めた9名。勝ちに行った、勝つためのチーム。そしてもう一つは次女をチームリーダーに、体の大きい子、小さい子、太めの子、足の遅めの子を寄せ集めたオドべチーム。捨てのチーム。

一目瞭然なチーム編成に、言葉もないが、次女はみんなで朝練して、作戦練って、工夫して、少しずつチームの結束を高めて、倒れた体の大きな子の下敷きになって息ができなくて死ぬかと思ったと言いながら、運動会に向けて練習を積み重ねていた。

ところが、ある日、キラキラチームからクレームが入る。うちのチームで一番足の遅い足手まといと、オドべチームの一番足の速い子をトレードしよう。そうしたら、私たちのチーム力がアップする。そしてB組が優勝に近づける。先生にはもう相談済みで、いいアイデアだと了解済みだ。

花いちもんめ、あの子が欲しい、あの子がいらない、相談いらない、よこせ!

次女は開いた口がふさがらず、自分達が今日まで練習してきてやっとつくったチームワークだ、簡単に言うな、メンバー交代して一からやり直すのは簡単じゃないんだと反対したが、ギャルチームに先生がいいといったという錦の御旗を振り回され強行されてしまった。

帰宅して悔しくて悔しくて泣く次女。自分たちがこれまで一生懸命やってきたことは何だったんだ、やっとチームワークができてきたとこだったのに。キラキラに供給するのが存在意義なのか??私たちってなんなの?捨て駒?

沸々と湧く怒り。百歩譲ってキラキラチーム女子は許そう。ただ大人の作った勝利という目標を盲目的に追随してるだけだ。勝ちたい、速くゴールしたい、そのためには、一番遅い子を交換すればよい。常に弱者を切り捨て切り捨て、そして最後には誰もいなくなるパターンだ。その子たちには行きつく先は見えていないんだろう。

問題は大人だ。

次女は入れ替わったメンバーと黙々と膝に肘に傷を作って練習を続けていた。

運動会当日。ムカデ競争を迎える。パアンとピストルの音が鳴る。飛び出すキラキラチーム。当然トップだ。前へ前へと駆ける。凸凹チームはやっぱりなかなか前に進まない、あ、転んだ。涙で目が潤んでよく見えない。それでも立ち上がり、声を掛け合って、再び前に進む、あ!一つ前のチームを抜いた!がんばれ!がんばった!

運動会後にちょうどタイミングよく三者面談があった。勿論メインは受験のことだったけれど、お母さんから何かありませんかと問われて、ひとつお聞きしたいことがと切り出す。

ー先生、運動会がありました。ムカデ競争という競技のの目的は何でしょうか?一秒でもタイムを縮めて速くゴールすることですか?でしたら、それは短距離走と変わらないですよね?私はムカデ競争の目的は、速く走ることではないと思うんです。そもそも足を縛りあって速く走れるわけがありませんから。

ムカデ競争の目的は、チームワークを形成することではないでしょうか?足を縛るというハンデをどう乗り越えるか、互いの対格差を運動能力の差をどう調整するのか、チームで話し合い工夫をしあうことが、コミニケーションを深めてひいてはクラスメートとしての友情を深めることになるんじゃないでしょうか?

だとすると、一秒でも速く走ろうと、一秒遅いメンバーを切り捨てて、一秒速いメンバーと入れ替えることは、何か目的を失っていると言えませんか。そうやって切り捨てる先には誰も残らないことを、子供たちは知っているのでしょうか?

娘は、運動会のメンバー選定に悩んでいました。このグループ分けの意味するものは何か、何を目指しているのかと。悩みながら、毎朝練習して、自分達らしいレースができたことで順位以上に得るものがあったと、親として誇らしいです。

先生はどうお考えになって、途中メンバーを入れ替えることを了承なさったんですか。

ーぐう

先生はぐうの音も出なかったと思う。ぐうといったような言わないような。正論で先生と言われる人を追い詰めたんだから、キュウソネコカミは想定内。でも、大人として、一番遅いを子をトレードして速いチーム作るという発想を、教育の場で良しとするのかと。そういう競争の原理を、経済活動だけじゃなくて、学びの場でも持ち込むんですねと。子どもに必要なのは理想だろって。

勿論次女にも、先生に話すことは事前に了承済みで、言わないでもいいことを言うんだから、先生が切れ散らかしてくることも、今後煙たがられることも引き受けるリスク?も説明して、それでも言おうということになった。正しいことは諸刃の剣だ、振りかざす者も無傷ではいられないことを学ぶ。

次女は学校では好かれていないという、教師の発するオーラは卒業まで背中に刺さったと言っていたけど、それでも自分のやったことを母が認めてくれ、それを正面からおかしくないですかーって対峙して見せてくれたことで、母は株を上げ、娘は自分への自信を深めたようで、ひとつ彼女が強くなったと感じさせる出来事だった。



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