会話の接ぎ穂
ミミさんのお店に、陶器の展示が始まる前の夜にお邪魔する。
先客がいらした。コロナまではオーガニックの食材でビーガンのお料理を提供して間借りのカフェを開いておられたという。
そこに人が集い何かが産まれる瞬間を見るのが楽しくて、DMイベントの案内をして集客を見込み、季節や客層から、どんなものが喜んでもらえるかアレコレ食材を選び、メニューを考え、当日調理をして、それを会場に運び込み、当日お迎えしながらサーブするという大変な曲芸のようなことをやり続けていたという
夢中でやり続けてる間は、筋力が鍛えられてできていたけれど、結婚と一緒でふと恋のノボセから冷めて現実に戻ってしまったら、コロナの後にはもう、あれ、なんでこんな大変なことやってんだろアタシと気付いてしまって出来なくなってしまったのよ涙と、黒目がちの瞳で微笑む美しい人だ。
初対面なのに、何の違和感なくずっと前から友達だったみたいに3人の会話が弾む。誰かが喋りすぎることもなく、誰かがただ聞き役になることもなくて、ちょうどいい塩梅。亀の甲より年の功。百戦錬磨のツワモノの匂いがする
お仕事は臨床心理士とお聞きして納得。イベントスペースの運営者、そして施設管理者。喋るのも聞くのも得意なオバサンが3人揃ったわけだ笑
コロナ禍でのオンラインのコミニケーションの話で
ー私、会話って、こうやって3人で話していて感じるんですけど、会話の始まりと終わりって「のりしろ」みたいに重なってるんじゃないかと思うんです。実際に声が会話が重なってる時もあるだろうし、互いの視線が重なってバトンのように渡される時もあるだろうし。
会話が重なり合う瞬間があるから、コミニケーションが円滑でスムーズだと感じていたんじゃないでしょうか。
ZOOMでは、ブチっブチっとミュートを解除とか、手をあげるとか、イチイチぶった切られるじゃないですか。あれが、どうにも不自然で。
ーあ、ナルホドねー。確かにそうだわ。用件のみを伝達する仕事の会議なんかでは問題ないけど、こういう日常の会話はZOOMってなんか盛り上がらないのよね。受け取れるその他の情報が少なすぎて。
ーそうよね。今夜のこの会話も、家に帰って楽しかったなーと思い出すけれど、じゃあ何を話したかなんてあんまり覚えていないものね。すごく重要なことを話すわけじゃない。
お互いにこの場の空気を気持ちよく共有できたということが、最高の会話だったということだと思うのよね。
一瞬にして互いに橋脚を伸ばし、井戸に釣瓶を落として、繋がり合える人がいる。そして今その人にあっているということは、ビンビン空気の振動でわかる。魂の共振。
ー匝瑳に行くのね。素晴らしい出会いがきっと待っているわ。高坂さんによろしくお伝えください。チコさんはもう立派にアウトしてる笑。その絞りのピンクの羽織と麻雀牌のイヤリングが勝負服って人そうはいないもの笑。
また会いましょう。地球のどこかで!FBやってる?匝瑳のこともなんでも聞いてね。
ーええ。また必ず会える気がします。FBは最近放置プレイ中なんですけど。あとで送ります笑
ーもう。お茶目なんだから。放置とか笑。
この何年も感じていたオンラインでの会話の違和感を、流れるように心地よい鼎談がみかん汁であぶり出す。ウンウン唸ってヒリダソウトシタッテ、出てくるもんじゃないんだ。つくづく思う。
ただ、ずっと、分からないと言いながら、自分の味噌蔵でひっそり抱え続けて醸成する工程はスルーもパスも人任せにもできない。
夜の街を自転車で駆け抜けて家路を急ぐ。