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ひとに手伝ってもらうんは、いやなんよ。―西条の気高き『白馬』。

横文字にしようかと思ってたんですよ。最初は。洋食だから。でも、この世の中で一番きれいな生き物いうたら、人間も含めて、馬だと思うんよ。気高いし。で、馬のなかでも、とくに『白馬』。おかげで通ってる人が、名前が好きだと入ってくれる人が多くて。

こう語るのは、西条の老舗レストラン『黒猫』のチーフとして4年間勤務した後、1972(昭和47)年に、黒猫と同じ西条市の「栄町通り」にレストラン『白馬』をオープンさせたご主人。閉店後の今でも残る『白馬』という店名を配したハイカラな外観と、周囲の反対を押し切ってわざとローマ字表記で入れた西条の銘酒「SAKE YAMATOGOKORO」の表示が、ご主人のことば通り「気高さ」を感じさせます。

開店当時はね、お客さんの9割が女の人だった。お昼は満席で、相席は当たり前で。小さい店だったから。女の人ばっかり。最初やったころは、お店が小さかったからね。あんな小さいところでようするわ、という感じ。
当時、夜市はすごい人。食べ物屋さんに入ってジュース飲むのが、子どもたちの夢だったの。あの小さいところで一日に100人、入りよった。自分では忙しくて数えてないんやけど、おしぼり屋さんが教えてくれる。覚えてる?いうて。あの小さいお店で100人よ、いうて。ほんと、忙しかった。

開店当時は、現在の店舗外観が残る場所からさらに数軒南側に店舗を構えていたという『白馬』。ほどなくして現在の店舗を譲り受け、1階は通常店舗、2階には大きな宴会座敷を構えるレストランとして、多忙な日々が続きました。

得意料理は、ありふれとるけど、ここをやりだしたころは、カレーとハンバーグ。あと、オムライス。オムライスが今でも食べたい言うて来る人がおるわね。昔のオムライスよ。卵で全部巻く。いまはふわっと乗せるじゃない。そうじゃなくて、巻き込むの。あれは技術がないと巻けない。くるっと。あれが、コックさんでも簡単には巻けないんよ。「調理師さんならだれでも巻けるかと思ったら、できんのよ」いうて。コックさんはみな巻けると思ってた。

カレーとハンバーグとオムライス。洋食レストランの王道中の王道メニューですが、それを得意料理と自負できるのは、松山・大街道の名店『西洋軒』などで修業した確かな腕があってこそ。ご主人が自慢の腕を振るうおいしい料理が評判で、宴会の方も大忙しでした。

うちらが商売しよったころはね、おかげさまで先生とか警察官とか公務員が多かったけんね、年度末とかになったらもう、部屋の取り合いみたいな感じで。学校関係なんか、年度替わりで歓送迎会があるでしょ。高校の先生なんかも来よったからね。みんな同じ日になるんよ。早くから部屋を取って。なかなかないんよね、そういう何十人も入れるところが。

いまは移転したり閉業したりしてしまいましたが、大きな製紙会社や愛媛県の地方事務所、教育事務所などが近くに立地し、西条高校も徒歩圏内。恵まれた立地のおかげで、大口のお客さんが多かったそうです。
そんな、自慢の料理を肴に行われる大宴会は、いまとは少し様相が違ったようです。バブル期の宴会の様子を、ご主人はこう回顧します。

景気がよくて、バブルのころなんか、おもしろいわ。宴会の値段なんか、料理がいくら、飲み代がいくら、と決めてやってたんやけど、バブルのころなんか、お客さんのほうから、もうちょっと金を出すけん、ええのを出してくれ、これだけ出したらええもんできるか?と勝手に値上げしてくれんよ。いまの居酒屋とか、若い子の飲み方見てたら、全然違う。昔は一升瓶が並んどったからね。沸かすのが大変。だから、とっくりの本数なんか数えてなくて、一升瓶の数で数えてたもん。何本、いうて。だから、その日にお金払う、言われたら困るんよ。計算に時間がかかるから。

現在では想像も及ばないような、宴会場のにぎわい。店舗内の宴会場ではスペースが足りず、ご主人たちが寝室に使っていたプライベートスペースをお客さんに使ってもらったこともあったそうです。
自ら「職人」と自認するご主人。朝4時に起きて壬生川まで出向いて行う仕入れから、遅くなると深夜1時ごろまで続く営業。助けになれば、と尋ねてくる『黒猫』のかつての教え子たちもいたそうですが―

料理を作るのは私一人。宴会でも、和洋折衷で作ってた。ひとに手伝ってもらうんは、いやなんよ。

根っからの職人気質。80歳を迎えてもなお料理の腕を鈍らせまいと、自宅のキッチンに立つ気高きご主人です。

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