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野村ID野球と緑のラーメン―今も愛される「ヤクルト会館」の話

「巨人・大鵬・卵焼き」ということばは、昭和40年代の大衆が好きなもの、を端的に表した流行語です。

1965年から「V9」という伝説的な日本シリーズ連覇を達成した読売巨人軍、1971年の引退までで32回の優勝を果たした名横綱・大鵬、高度成長の中で‘物価の優等生’として庶民の食卓に上がる機会も増えた、甘い卵焼き。中でも、スーパースター「ON」を抱えた巨人を筆頭としたプロ野球は、常に話題の中心でした。
そんな巨人も大鵬も卵焼きも絶好調な1970(昭和45)年に、いまの愛媛東部ヤクルト販売(株)本社社屋は完成します。そしてこの新社屋の1階に開業したのが、当時ヤクルトの直営だった『純喫茶ヤクルト』でした。
現在、愛媛東部ヤクルト販売(株)の会長を務める嶋田祐二さんは、当時をこう回顧します。

このビルは昭和45年にできて、もう51年目になるんよね。このビルができたときに、このビルの1階に、喫茶店をつくったの。当時、ものすごく繁盛しました。
その当時はこのへんはずっと田んぼだったから。ここらは建物なかったからね、喫茶店もなかったし、これくらい気楽にできるのはなかなかなかったから。そのあと、どんどん喫茶店ができてきたけど。この時代は、まだ自販機もなかったし、コンビニもないし。コーヒーなんか売ってないし。だから、コーヒー飲もうと思ったら、喫茶店に行くしかないんよ。新居浜にはまだ何軒もなかった時代で。『アルプス』とかがあったくらい。『亜土』とか。二つ三つあったくらい、純喫茶が。

日本初の「コンビニエンスストア」が大阪府豊中市にオープンするのが1969年、UCCが缶コーヒーを発売したのも1969年、マクドナルド1号店が東京・銀座にオープンしたのが1971年。嶋田会長の言うように、1970年代当時の新居浜でコーヒーを飲むには、喫茶店に入るのが一番、気楽な手段でした。1970年代後半になると、全国的な喫茶店ブームの中で新居浜市内にも数多くの喫茶店が誕生しますが、1970年オープンの『純喫茶ヤクルト』はその先駆的存在と言えます。

(名物メニューはなんでしたか?)そりゃ、ヤクルトラーメン、クロレララーメンというのが。それをうちで使って、ベースにして、山菜とかを入れて豪華にして。ヤクルトラーメンは、うちの定番。軽食でよく出たよね。ラーメンはうまかったなあ。それをただ単に出してたんじゃなくて、いろいろおいしくなるように手を加えて、ラーメンセットみたいにしてたから。ラーメンはほんと、よく出ましたよ。で、来た人全員にヤクルトつけてましたよ。ここで儲けるというよりも、人を集める、ヤクルトに親しんでもらう、というのがメインだったから。ここへ来て楽しんでもらうことで、ヤクルトに親しんでもらうようにという感じで。

名物の緑色のラーメン「ヤクルトラーメン」人気もあり、繁盛する『純喫茶ヤクルト』。そんな喫茶店経営の基になっている「ヤクルトに親しんでもらいたい」という嶋田会長の思いは、本社ビルが「ヤクルト会館」という愛称で呼ばれ、主催する体操教室に多くの子どもが通うなど、徐々に結実していきます。
そんな、地域と「ヤクルト」のつながりを、プロ野球・ヤクルトスワローズの活躍がさらに後押しします。中でも印象的なのは、9年の在任中リーグ優勝4回、日本シリーズ制覇3回を果たした名将・野村克也監督時代の快進撃です。

野村監督のときがすごかった。相当優勝したからね。ヤクルト優勝するたびにコーヒー安くしたり、セールをやって。外にテントを張って、グッズとか、うちの商品とかを売って。なかなかそういうのが手に入らなかった時代だったから。野村さんが優勝した時には、屋上から垂れ幕を出したりもしたしね。ヤクルトスワローズ優勝、いうて。ヤクルトが優勝すると、「ヤクルトで何かあるだろう、優勝したから」と人がたくさん来るんよねえ。

野村監督時代の優勝のたびに発行された「優勝記念テレホンカード」は額装され、いまでも愛媛東部ヤクルト販売(株)の役員室で大切に保管されているとのことです。

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