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【先行公開!】喫茶店が、多くの人の「居場所」だった時代―昭和時代、新居浜と日本の喫茶店事情

戦後-1950年代
コーヒーが高級嗜好品だった時代

戦後すぐの日本。

日用品すら満足に手に入らない時代です。いち早く営業を再開する喫茶店もありましたが、手に入るのは、日本に駐留するアメリカ軍から放出されたわずかなコーヒー豆のみ。コーヒーは、高級な嗜好品でした。

コーヒー豆の輸入が再開されたのは、1950(昭和25)年。その時の輸入量は163トン。コーヒーに換算するとおよそ1,000万杯分。当時の日本の人口は約8,400万人ですので…はて、多いのやら少ないのやら。国民の8人に1人が1年に1杯だけ飲めるという計算になりますから、非常に少ないように感じます。

1960年代-1970年代
コーヒー豆輸入自由化と喫茶店ブーム

コーヒー豆の輸入が全面自由化されたのは1960(昭和35)年。この年の輸入量は、1950年の約70倍となる、10,800トンあまり。国内メーカーは軒並みインスタントコーヒーの開発に乗り出すなど、コーヒーが急速に庶民の間に戻ってきます。

スターバックスやドトール、コメダ珈琲などのコーヒーチェーン店が全国にあふれるのは遥か先の話ですし、コーヒーを提供するファストフード店やファミレス、コンビニエンスストアなどが登場するのは1970年代に入ってから。コーヒー豆の輸入が再開され、庶民の胃袋にコーヒーが戻ってくるのを支えたのは、個人経営の喫茶店でした。

新居浜に目を向けると、この展示でも紹介している1960(昭和35)年の昭和通り近辺の地図では、所狭しと並ぶ商店や食堂に混ざって、すでに「アルプス」「朝日ヤ喫茶店」「アルジャン」「モナコ」など、喫茶店と思しき店名がちらほら見受けられます。ベテラン新居浜市民なら一度は行ったことのある(?)「ハワイレストラン」の名前もみえます。

ともあれ、コーヒー豆の輸入量増加からも推察できるように、1960年代からは喫茶店ブーム。固定電話の普及率が1970年代に入ってやっと30%に届くくらい、クーラーの普及率は1965年の時点で約2%、テレビも白黒からカラーへの過渡期で普及率もわずか、という時代ですから、喫茶店は待ち合わせに使われるのはもちろんのこと、「事務所代わりに使って電話を取り次いでもらう」「クーラーで涼みに来る」「テレビを見に来る」など様々な人が様々な理由でそこを「居場所」としていました。

総務省の統計から「喫茶店の事業所数」を見ても、1966(昭和41)年には27,000カ所ほどだったのが、約10年後の1975(昭和50)年には3倍以上となる92,000カ所以上にまで急増。1981(昭和56)年に事業所数はピークを迎えて150,000カ所ほどとなり、喫茶店が街にあふれた時代でした。

新居浜や西条の方への聞き取りからも、このような喫茶店の増加傾向は伺えます。1970年代初頭にすでに店を構えていた喫茶店は「昔からあった」「喫茶店はあそこしかなかった」と言及されることが多く、それら「昔からあった」喫茶店の関係者たちも「1970年代中盤から後半にかけて、雨後のたけのこのように、毎日のように喫茶店がオープンするような状態だった」と、1970年代中盤から市中に急速に喫茶店がオープンした様子を回想します。

1980年代
ピークを過ぎた喫茶店ブーム

しかし、先ほど紹介した1981年をピークに、喫茶店の事業所数は徐々に減少。これには、複数の要因が考えられるようです。

まずは、喫茶店以外の外食産業の勃興。「外食産業元年」と言われる1970年から、いまでもなじみのある外食チェーン店が徐々に、その規模を拡大し始めるのです。年を追って紹介すると、例えば1970年には「ケンタッキーフライドチキン」、「すかいらーく」。1971年には「マクドナルド」、「ミスタードーナツ」。以降、1980年代初頭にかけて「モスバーガー」、「サイゼリヤ」、「デニーズ」、「ほっかほっか亭」、「びっくりドンキー」、「すき屋」など、のちに全国チェーンを展開する外食店の1号店が続々とオープンします。小腹が空いたから軽食、家族でちょっと外食、友だちとちょっとおしゃべり、一人でゆっくり読書、など、これまで喫茶店が主な受け皿となってきたニーズが、喫茶店以外の店舗でも様々に満たせるようになったのです。

インスタントコーヒーの生産技術向上や、缶コーヒーの普及もそうです。「5秒でかんたんコーヒー」の売り文句で森永製菓がインスタントコーヒーを発売したのは1960(昭和35)年だったのですが、喫茶店との味の差は明らか。しかし時代が下り生産技術が向上するにつれ、「家でもおいしいコーヒーが飲める」という時代が訪れたのです。
UCCが缶入りコーヒーを発売したのは、大阪万博の前年である1969(昭和44)年。この缶コーヒーは大阪万博会場で爆発的な売り上げを記録し、一気に市民権を得ます。1973(昭和48)年には、いまのポッカサッポロフード&ビバレッジが冷却・加温の両方が可能な自動販売機を開発して、冬でも温かいコーヒーが簡単に購入可能に。「喉が乾いたら、コーヒーが飲みたくなったら、喫茶店に入るのが一番手っ取り早かった」という時代に、新たな選択肢を提供することとなります。

高度経済成長の恩恵で経済的なゆとりを得ていた庶民たちにとって、このような選択肢の増加は歓迎すべき事態。バブル経済の波に乗った全国チェーン展開や、店舗の大型化、郊外化も人々の消費行動の変化に拍車をかけ、かつての喫茶店ブームはその勢いを失っていきます。

新居浜、西条の喫茶店にとってもそれは例外ではありません。今回の展示で紹介するような販促マッチの残る喫茶店のほとんどは、いまは閉業しているか、業態を変えているか。新居浜料理飲食業協同組合の方も、マッチの残る店舗のリストを精査したうえで「もう、数えるほどしかお店が残っていない」と嘆いていました。

平成から令和へ
全国チェーンの喫茶店が急増

バブル経済が終焉を迎え、時代は平成、そして令和へ。

みなさんが周りを見渡しても感じられるように、喫茶店と言えば個人経営のお店というよりも、全国チェーンのお店というイメージの方が強いかもしれません。

たとえば1996年には「スターバックス」が日本1号店をオープン。1987年には国内100店舗ほどだった「ドトールコーヒー」は、2015年には1,350店舗ほどに規模が拡大。「コメダ珈琲」も1993年からフランチャイズ展開を本格化させるなど、個人経営の喫茶店に代わり、このような全国チェーンの喫茶店が、市街地、郊外問わず店舗数を急拡大していきました。

ともあれ、そのような全国チェーン店にはないこだわりや個性を持った小規模な喫茶店が、まだまだ頑張っているのも事実です。新居浜や西条でも、いまでも残る老舗から、比較的新しいおしゃれなお店まで、様々なお店が今日もおいしいコーヒーを淹れています。


≪参考文献≫
この「マッチのあった青春時代 私たちの思い出展」を構成するにあたり、各個人へのインタビューに加え、以下の各資料を参考にしました。

『大正・昭和のマッチラベル ラベルデザイン百花繚乱』関本康弘編 ピエブックス2004
『燐寸図案 北原照久コレクション』荒俣宏監修 マガジンハウス1994
『ひとびとの精神史 第6巻 日本列島改造 1970年代』杉田敦編 岩波書店2016
『東京ノスタルジック喫茶店』塩原槙 河出書房新社2009
『歌声喫茶「灯」の青春』丸山明日果 集英社新書2002
『東京ふつうの喫茶店』泉麻人 平凡社2010
『くらべる時代 昭和と平成』おかべたかし文/山出高士写真 東京書籍2017
『あの頃、VANとキャロルとハイセイコーと…since1965』金光修 アスキーコミュニケーションズ 2003
『ビジュアルNIPPON 昭和の時代』伊藤正直・新田太郎監修 小学館2005
『「働く青年」と教養の戦後史』福間良明 筑摩選書2017
『集団就職 高度経済成長を支えた金の卵たち』澤宮優 弦書房2017
『新居浜市の歴史』新居浜市 2021
『暮らしの年表 流行語100年』講談社編 講談社2011
『増補新版 現代世相風俗史年表 1945-2008』世相風俗観察会編 河出書房新社2009
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中村啓佑「日仏文化比較試論(2)カフェと喫茶店」
『追手門学院大学文学部紀要 33号』1999所収
多田智和「社会資本の効果と魅力」
『国土交通政策研究所報第70号秋季』2018所収
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キーコーヒー株式会社HP「コーヒーの歴史」
全日本コーヒー協会HP「調査データ」
スターバックスコーヒージャパン株式会社HP「沿革」
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総務省統計局「事業所統計調査報告書」
財務省「貿易統計」

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