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倉敷珈琲館にあこがれて―うなぎの寝床の小さなお店『珈琲専門店 プチ』

四国を本州を結ぶ、最初の陸路である瀬戸大橋が全線開業したのは1988年4月。昭和末期のことです。

それまでは、岡山まで行くには「汽車で高松へ行き、連絡船で宇野まで渡り、宇野から電車で岡山へ」というのが一般的で、新居浜からだと5時間程度かかっていた計算です。このように本州が、今より遥かに時間的に遠かったころ、『プチ』の経営者である阿蘇道子さんは、あるひそかな憧れを胸に、新居浜と東京を行ったり来たりしていました。

若いころ、資生堂っていう化粧品の会社に勤めてて。銀座4丁目に本社があったんですけど、そこにいるときから、コーヒーが好きでね。しょっちゅういろんなお店に行ってたの。化粧品の業界も、仕事としてはいいんですけど、独立するとなると資金がかかるので。OLの私にはそんなお金貯めれないから。で、コーヒーは好きだし、仕事の合間に、コーヒー屋に行っていろいろ考えて。倉敷に憧れてるママさんがいたの。『倉敷珈琲館』っていうお店があったんですけどね、じーっとそういうのを見てて、私もこういう店ができたらいいな、と何回も通って。

今も昔もハイセンスなファッションアイコンである「資生堂」に籍を置き、実家と勤務地とを行き来することも多かった阿蘇さん。しかし、将来の独立を考えると、化粧品業界は敷居が高い。そんな阿蘇さんの胸の中にあったのは、倉敷・美観地区に店を構える老舗コーヒー専門店『倉敷珈琲館』のママさんの姿でした。

わたしにとっては、声を掛けられないくらいすてきな方だったの。立ち振る舞いや接客とか。コーヒー豆が焙煎されるのを、こういう風に(やや斜めに構えて腕を組んで)見てるのよ。だから、50年くらい前よね。彼女も若かったし。私の原点だから、今でも美観地区に行くと必ず行くの。とてもすてきで、商売も上手で、魅力のある人だった。私もあんな風になりたいなあと思って。

阿蘇さんは、資生堂を退職。1974年、退職金を元手に今の『プチ』をオープンさせます。

このお店をしようって。退職金で。ここは、前も後ろも田んぼだったの。それを、道路が抜けたでしょ、それでうなぎの寝床みたいな、細長い切れ端の土地が残ったんよ。だから、退職金でも買えた。坪6万円くらい。安い時代よね。
それでね、ここでやるとしたらコーヒー専門店しかないわ、と思って。なにしろ、車が一台通っても、あと20分くらいしないと次が来ない。そんな時代でしたから。1974年ごろは。道も舗装されてなくて。そういった、車が一台通ったら、しばらくしないと次が来ないようなところでね。うちの母は、娘がこんなところで店をするなんて、いうて悲しんだりしたんですよ。

当時の田中角栄首相によって1972(昭和47)年に発表された『日本列島改造論』に代表されるように、都市交通網が急速に整備されていた時代。いまの西条市「市塚交差点」から南に延びる「公園通り」も、道路が通ったとはいえ、2世帯に1台の割合程度の自動車保有率(1975年)の中では、交通量もまばら。それでも当時、コーヒー専門店は珍しかったそうで、『プチ』の経営は徐々に軌道に乗ります。

「プチって、お宅の犬の名前?」いうてお客さんが、ふざけて聞いてくるんですよ。いまはその人も常連さんだけど、もうおじさまたち。で、ウインナーコーヒーとかを注文して下さるから「あらうれしい、ウインナーコーヒーなんて注文いただいた」と思って、お出しするでしょ、そしたら「ママ、ウインナーが入っとらんがね」と言うんですよ。
高校生も来てた。「おばちゃん、今日持ち物検査があるんよ、ティッシュ忘れた、ハンカチとかも、僕ないんよ」いうて。学校に行きがけなんよ、持ち物検査あるのに。だから、急いで、おしぼりなんかをたたんで、乾いたやつ。それをたたんで持たせて。そんなことがありましたね。西条高校の子とか、高専の子とかも通ってたね。

自慢のサイフォンとこだわりの調度品。自家焙煎のコーヒーと、開店当時からの看板メニューであるワッフル。通学途中の高校生や外回り営業の合間のサラリーマン、アフタヌーンティを楽しむ女性たちなど、老若男女問わず愛される喫茶店となった『プチ』の、静かにジャズの流れるフロアで、阿蘇さんは穏やかに次の夢を語ります。

あと半世紀くらいは、と思ってるんですよね。

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