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車へのあこがれ―『スナック エバ』と117クーペ

昭和の時代、自動車はいつも、若者の憧れでした。
終戦直後からオート三輪(三輪貨物自動車)が普及する中で、海外メーカーと提携して技術力をつけた国内メーカーが、日本人好みの小型車の生産を本格化させた昭和30年代。時を同じくして始まった「高度経済成長」の真っ只中、市中では急激に乗用車が普及していきました。とはいえ、サラリーマンの平均月収が4万円程度(1960年)だった時代に、スバルやトヨタの発売した小型車は40万円前後。クラウンなどの高級車は100万円超。まだまだ、家庭用乗用車は高嶺の花でした。
しかし、1955(昭和35)年に通産省から発表された「国民車育成要綱案(最高時速100㎞以上・排気量500cc程度・燃費30㎞/L・4人乗り、という基準を満たした自動車を選定し、財政支援するもの)」により、国内メーカーの生産熱は高く、燃費の良い・安価な車が徐々に庶民の手に渡っていきます。1965(昭和40)年には自動車の輸入が自由化され、外国車も徐々に普及。1975(昭和50)年には2世帯に1台の割合で保有されるほどとなり、日本のモータリゼーションが急速に進んでいった時代です。

そんな時代に新居浜で少年時代を過ごした天野少年も、急速に普及する自動車に目を奪われた一人でした。

これ、『エバ』。なんでこれ覚えてるかっていうと、小学校のとき、通学路、行動範囲にあったんよね。で、そのときに、怪しいんよ。洗練されとるけど、怪しい感じ。でも、117クーペが何台か展示してあるのよ。店の傍らで、車の販売もしてたのかなあ。当時、117クーペ、ものすごいおしゃれなんよねえ。で、中学校ごろにカレーを始めて、で、高校くらいのときにインベーダーゲームを始めた。インベーダーは、喫茶店行かないとだめなんよねえ。で、当時の友達がインベーダーばっかりしよったんよ。連れていかれてね、『エバ』に。昼は喫茶店で夜はスナック。というパターンのお店で。だから、子ども心に印象が深いんよね。小学校のころは、「夜のお店なのに、なんでこんなところでやって、流行るんだろう」と思ってたんよね。だけど、117クーペが展示されてるし。かっこいいやん。何屋さんなんだろう、って前を通ってて。

通学の道中で目にする憧れの車は、‘洗練されてるけど、怪しい感じのお店’『エバ』の傍らに展示されている、おしゃれな117クーペ。いすゞが1981年まで販売していた、流麗なデザインを備えた4人乗りクーペです。天野少年の胸には、のちにインベーダーゲームのために足繁く通うことになるスナック喫茶『エバ』は、まずは「かっこいい車が展示されている、怪しい感じの店」とインプットされます。そして天野少年は、大学四年生のとき、ついに自分の車を手に入れます。

(最初に買った車は何でしたか?)
わたしは、フォルクスワーゲンの、タイプ3。
(それは、これがほしい、と思って買ったんですか。)
そうやね、探した探した。そしたら、たまたま知り合いの中古車屋さんが持っててね。結局その車は、1年車検でお金もかかるし、3年くらいしか乗らなかったんよね。1960年代の車だったしね。マットの赤色でかっこよかったけど。いや、ほんとはね、もうちょっと地味なのがよかったんやけど、それしかなかったから、もうそれでええやろって。そのときに、『エバ』のところで見た、117クーペを買おうか、これを買おうか、相当迷ったんよ。
(じゃあ、相当『エバ』が、尾を引いてる感じですね。)
そうやね、『エバ』で見たあれね。子ども心に、気になってたんやろねえ。

117クーペの所有には至りませんでしたが、天野少年の頭の片隅に残り続けた『エバ』の117クーペ。天野少年に限らず、車に憧れ、念願かなって自分の車を手に入れた若者たちは仲間たちと行動範囲を広げ、西条や土居へと足を延ばし始めます。

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