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昭和通り随一の情報交換の場―『アルプス』と『亜土』に集う商店主たち

戦後、新居浜の目抜き通りと言えばいまの昭和通りの一つ北側にあたる「本町通り」でした。その賑わいが徐々にいまの昭和通りや敷島通りに移ってきたのは、1950年代中盤から1960年代初頭あたり。きっかけの一つは、1955(昭和30)年2月25日に市議会で議決された「議案第46号『モデル商店街の建設について』」の中で言われた、‘モデル商店街’の建設についてでした。

新居浜市の商店街の発展及び育成並びに都市美観の造成を図るため、新居浜市の商業センターとしてモデル商店街を建設する。…(中略)…【提案理由】新居浜小学校は、近く全面移転の計画をもって新築工事中であるが、小学校移転跡地にモデル商店街を建設することは、昭和通り全体を連結した店舗街として都市の美観を整え、市外からの顧客の誘致の一助ともなり、商業振興策の一環として市勢の発展に寄与することができる。

当時新居浜市泉池にあった新居浜小学校の校舎が、いまの新須賀町に移転完成するのは1955年10月。その跡地活用として完成が目指されたモデル商店街はのちに「銀泉街」と呼ばれる、いまの「銅夢キッチン」周辺です。商業振興策として目指された「昭和通り全体を連結した店舗街」構想は、その後見事に結実します。
いまも昭和通りに店を構える青野メガネの店主・青野泰三さんが、学生生活とその後のサラリーマン生活に区切りをつけて、故郷である新居浜に戻ってきたのは1964(昭和39)年のこと。東京オリンピック開催の年でもあり、新居浜だけでなく日本全体に活気があった時代です。

ぼくは本町通りに生まれて。うちの親父とおふくろが結婚して、本町通りに店を借りて、商売を始めたんやから。それが昭和10年。昭和14年生まれでね、ぼくは。それで昭和20年に、疎開しとって帰ってきて。だから、本町通りが一番にぎやかなときも知っとるし。で、うちの親父がどう考えたんか、こっちに移ってきて。だんだん本町通りで商売してた人がみな、こっちへ移ってきた。みんな移ってきて、本町通りが今みたいになった。
伊予銀行があるでしょ、これは昭和32年か33年のはずよ。で、銀ビル、銀泉があってね。それはわしの学生時代なんよ。昭和32年に入学やけんね。36年に大学卒業で。ちょうどその間やから。小学校のころとかは分かるんやけど。その後3年.卒業して3年サラリーマン。だから、7年新居浜におらんかったんよ。
帰ってきたら、銀ビルや銀泉ができてたんよ。その前は知ってるんよ。新居浜小学校の時代。当時は第一小学校。だから途中でね、知ってるようで、7年間は空白なんよね。ここらへん(今の昭和通りの店舗の辺り)なんか真っ暗で、幽霊が出る言われてたんやから。伊予銀行のところは池だったしね。沼地。こっちのほうは海岸だったし。

本町通りでの幼少期を経て、戦禍を逃れて疎開。疎開から帰ってきて、両親と共に昭和通りに転居し、進学を機に県外で過ごした7年間。1964年、新居浜に戻ってきた青野泰三さんは、発展著しい昭和通りで商売人として忙しい毎日を過ごします。

『アルプス』は毎日行きよった。何年くらいなあ、30年40年くらい前かなあ、毎日行きよったよ。ちょうど、うちの孫を連れて毎日行きよったんやから。それが今年、就職したんやから。大学出て。あれ連れて毎日行きよったんやから。とにかく孫連れて毎日行きよったし。こっち帰ってきて毎日行きよったとして、昭和40年くらいからよねえ。
けっこう毎日みんな『アルプス』で。たまり場というか、情報交換というかね。みんなおってね。同期の人とか。(喫茶店に通うのは)お金のかかることだけど、あんまり贅沢した覚えはないんやけど、年取った人以外は、みんな寄ってた気がしますね。働き盛りの人は。必ず。

今でも店舗が新居浜登り道サンロードに残る、新居浜屈指の有名店『アルプス』。この『アルプス』に毎日通う常連だった青野泰三さんは、そこがたまり場であり、情報交換の場だったと回顧します。

喫茶店は、どっちかっていうと、男の人が、「おう、今日もげんきか」とか、遊ぶ相談をして。「今晩どうする」みたいな。わしはだから、『アルプス』に30年くらい続けて行ったんだろうなあ。たくさんお金を落としたねえ、そう考えると。わしがいっつも行っとるもんだから、わしを探すときにみんな『アルプス』に来て、コーヒー飲んで。毎月コーヒー代を25,000円くらい払いよったなあ。

この『アルプス』と双璧をなすように、異口同音に思い出を語られることの多いのが『亜土』。青野さんは、1970年代のオープンだったと記憶しています。店舗は、いまの「めがねの大学堂」の向かい辺り。いまでは、かつて店舗のあった建物の外壁に『亜土』の「土」の字がかすかに残るばかりです。

『亜土』も行きよった。一日一回は行きよった。『アルプス』はみんなで寄ってね。『亜土』は狭かったんよね。だから一人だったかなあ。ぜんぜん違うんよね。雰囲気が。『亜土』のコーヒーはおいしかったね。『アルプス』はもっと大衆的な感じ。『亜土』は、ちゃんとコーヒー淹れる人がおってね。『亜土』と『アルプス』はママさんがとてもおしゃれで。お二人とも和服で。髪をいつも上げてたね。大きくふくらまして、着物を着られて。
いまみたいにコーヒーにこだわる店ができた、そのはしりみたいな感じじゃないだろうか。『亜土』は。コーヒーちゃんと淹れて。サンドイッチもおいしかったよ、自分で焼いて。おいしかった。そういうところで、ほかと違いを出してたんでしょうねえ。

コーヒーにこだわる店のはしり、として青野さんが記憶している『亜土』。ほかにも『ラ・セーヌ』や『白鳩』など、昭和通りには個性豊かな喫茶店が軒を連ねていたようです。
その後、昭和通り周辺で集客力のあった「ニチイショッピングデパート」や「南海デパート」が閉店。2001年にはイオンモール新居浜が開業するなど、昭和通りのにぎわいが「かつてのもの」となりつつある現状を、青野さんはこう嘆きます。

イオンの界隈が商店街みたいになる感じではないけど、パソコンの時代になって、商売の仕方が変わってきたんよね。生鮮三品はもちろんいかんし、お米屋さんもいかん、カメラ屋さんもいかん、みんな大きくないとだめ、という感じ。ぼくは浮き沈みを見てきたけど、今が一番、沈んでるかも。

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