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絶品デミグラスソースのレストラン―西条市民の胃袋を支えた『黒猫』の話

1970(昭和45)年は、外食産業元年と言われています。
大阪万博の開催に合わせて、ケンタッキーフライドチキンが日本に上陸し出店。すかいらーくも「ファミリーレストラン」の1号店を東京・府中市にオープンさせます。
翌1971年にはマクドナルド1号店が東京・銀座に、ミスタードーナツ1号店が大阪・箕面市に、ロイヤルホスト1号店が福岡・北九州市にオープン。その後も1970年代前半には吉野家、モスバーガー、サイゼリヤなど、いまでも多くの人に親しまれる外食・ファストフードチェーンが続々と誕生しました。
そんな外食産業の黎明期。
地元民の胃袋を支えていたのは、地元の老舗でした。

西条だと、一番最初のころのレストランよね。『黒猫』は。
その『黒猫』というお店は、戦前に東京でパンの技術を身につけて。で、戦後に進駐軍が来たからパンが流行って、大儲けだったらしい。とくにデミグラスソースが絶品で。でもそこはやっぱり、そこそこの家じゃないと、行かんかったイメージよ。旦那衆の使うところ、という。だんだん大衆化してきたけど。『黒猫』と『ナポリ』、西条は二つレストランという時代が長かった印象よね。

「そこそこの家じゃないと、行かんかったイメージ」という、少しだけ高級感のあった老舗レストラン『黒猫』。デミグラスソースが自慢だったようです。いまでも西条・栄町通りに残る店舗外観を見ると、他の店とは比べ物にならないほど広い、店の間口。多忙を極めた店内の様子は―

もうすごかった。相当繁盛しとった。ハンバーグなんかでもすごかったし、寸胴とかで、カレーも200人くらいのをつくるようなやつで作ってた。
(今見ても、店の間口もほかのお店と比べて相当広いですね。)
そうそう、でかかったよね。で、あそこだけ、西条高校が行ってもよかったみたい、学生が。だから、ここどこ?教室?というくらい、学生で埋まってしまってた。で、新居浜に高専あるでしょ。高専の子たちが5、6人、バイトで来よったよ。交代で。

家族での食事に加え、「あそこだけ、学生が行ってもよかったみたい」ということで、学生の姿も多かったと記憶されている店内。西条高校OBの皆さんの記憶の中にも、『黒猫』の思い出は鮮明に残っているようです。

僕ら高校生は、入れるところというのは決まってましたから。『レストラン黒猫』というのがあって、黒猫のパン屋さんが、レストランをしてたんですよ。けっこう大きな店でね、『レストラン黒猫』と『ベーカリー黒猫』。ここが、喫茶店も併設してたんで、高校生でも行ってよかったんですね。

とはいえ、無条件に「黒猫はOK!」とはなっていなかったようです。別の西条高校OBの方は、次のように回顧します。

みんな、『黒猫』は行ってたって言ってましたね。暗い方は禁止だった。明るい方だけOKだったって。
(なんですか、その暗い方って。)
『黒猫』は、喫茶部門とレストラン部門が分かれててね。入口は一緒だけど、奥のほうに行くと暗い。喫茶の方はちょっと暗いの。レストランの方は明るかったんよね。
『黒猫』は、2階から降りて来よったら先生に見つかって「こらー」言うて叱られたりしてた。あとは、市役所の地下で食堂しよったでしょ、高校生はあそこによく行って、ソフトクリーム目当てで。『黒猫』さんがやりよったんよ。だからソフトクリームの機械があったんよ。おいしかったなあ。

西条市民に広く親しまれた喫茶店『ドリップ』でも紹介した、店内の明るさの話題がここでも登場。たばこやお酒、成人向け雑誌、異性との交遊など「オトナ」な誘惑も多い喫茶店と高校生との距離感に、学校の先生方も苦労していた様子が見て取れます。

いまでも、レトロな雰囲気の商店街の中でその店舗外観を残す『黒猫』。あふれ出る昭和の趣は、一見の価値ありです。

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