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夢は「西の土居銀座」―白い壁とコーヒーの香りあふれる『喫茶シェリフ』とアミーゴ

銀座。
ご存じ、日本有数の繁華街として現在も進化を続ける街です。その先進的な街並みは、古くは大正時代から「銀ブラ」ということばもあるように、今も昔も人々の憧れの的です。
そんなにぎやかな街並みにあやかろうと、「○○銀座」など銀座と名の付く商店街が日本全国いろんなところにあります。今治にある「常磐町銀座商店街」も、その一つかもしれません。
私たちの住む新居浜にも、この「銀座」を夢見た方がいました。かつて西の土居に店舗を構えていた『喫茶シェリフ』の経営者、佐野佳子さんです。

わたしはここを「西の土居銀座」にしたくて。それが夢だって。結婚したときに、そんな夢があって。うちは白い建物で、このへんがコーヒーのにおいがする町にしたいと思って。ここ、なにもなかったんですよ。で、むかし西条から、いまのイオンの四つ角曲がって、フジ結婚式場まで行く道、ずっと真っ黄色だったんよ。木が生えてて。それが素晴らしいなって。白い建物にしたいと思ってたんだけど、ここらへんは喫茶店がなかったから、ここにしたんよ。
それが1980年。それから、楽しかったんよ。ここらへんはお百姓さんばっかりだったから、田んぼばっかりで。金栄小学校があって、中華料理屋があったくらい。だから、うちは目立ったんよ。

それまでは、金融機関でOLをしていたという佐野さん。「西の土居銀座」を夢見て結婚を機に始めたお店が、白い建物からコーヒーが香る、「保安官」という意味の『シェリフ』でした。バブル経済前夜の、日本経済がまだまだ右肩上がりの時期。佐野さんの忙しい毎日が始まります。

モーニング、忙しかったんよ。もうとにかく忙しかった。食べた食器も、忙しいから、家の廊下に並べてたの。一時は、ほんとしんどかった。2年くらいはねえ。寝れんのよ。忙しいから。ほやけど、手が抜けないから。椅子の座り心地が悪いと回転が速くなるんやけど、そんなんは嫌やろ、やからちょっとええのを選んだり。だから、お客さんいっぱい来てくれた。
当時は氷が足らなくなるくらい、アイスコーヒーがおいしかったんよ。ものすごいおいしかったねえ。自分で言うのもあれやけど。あと、コーヒーゼリー。すっごい人気やったの。コーヒーゼリーはよかったよ。

佐野さんの気さくな人柄や「コーヒーには絶対にトーストとゆで卵!」という味へのこだわりもあり、地域の財界人や同級生たちが広く集う繁盛店となった『シェリフ』。佐野さんの生活は、一日の営業が終わったあとも充実していました。

昭和通りのところに歌声喫茶があって。ロシアの民謡とかを歌ってたんよ。みんなで、20人くらいで行って、歌ってたんよ。業務終わったら、信金に行くやろ、そしたらそこの課長さんといっしょに行くんよ。あとは、いまのユアーズあるやろ、結婚式場。あそこは、私らが結婚したころはボウリング場だったんよ。だから、よく行ってたねえ。

歌声喫茶。ボウリング。さらには、佐野さんが独身時代によく通ったという、ダンスホール。どれも、昭和40~50年代を代表する若者の娯楽スポットです。そこに通う佐野さんの周りには常に、たくさんの友達の姿がありました。

うちの夫はね、「アミーゴ」、友情って名前にしたかったんよ、お店を。だけど、息子が『シェリフ』がいいよって。私が金栄小学校の補導員をしよったからね。わたしも何となく、『シェリフ』いいかなって。補導員で警察みたいなことしよるし。正しく生きようと思ったんかなあ。

10数年前に『シェリフ』を畳んだ佐野さん。「アミーゴ」という店名を提案した亡きご主人の慧眼鋭く、いまも佐野さんはご自宅で、‘アミーゴ’に囲まれる毎日です。

わたし、冷たいんよ。見向きもせんかったんよ。やめるとき。つらかったんやろうね。見ないの。ほんでね、(自宅の)2階から(かつての『シェリフ』の建物が)見えるんやけど、見ない。冷たいのか、悲しいのか、見ない。でもいまのこの家が、喫茶店みたいなもんなんよ。毎日だれかが来てるんよ。だから、息子とかがたまに来た時には「今日は誰が来たの」と聞いてくるくらい。だから、いまはここが喫茶店なんよ。

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