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封切り館へ急げ!―新居浜・西条の映画館の話

インターネットが普及し、定額制配信サービスなどで気軽に映像作品が視聴ができるようになった令和の時代。それでもなお、映画は私たち庶民の娯楽の中心であり、スクリーンを彩る銀幕スターたちは、憧れの的です。映画館に行くことでしか映画鑑賞ができなかった時代だとなおさら映画への憧れは強く、新居浜や西条にもかつてはたくさんの映画館がありました。
まずは西条の話。西条高等学校道前会の真鍋会長の回顧から。

『モカ』はミリオン座という映画館に併設されたような感じの喫茶店。2階に。ミリオン座言うたら、妙昌寺の前あたりの。最初、ミリオン座は洋画をしてたの。のちに日活になって、裕次郎とか。そのあとに、日活ロマンポルノになって。そんな感じだったねえ。
文部省推薦映画というのがあって、小学校のころなんか、行列して行ってたんよ、映画館に。映画館は、ミリオン座、朝日館、長楽館、それから、近松座、松劇、大劇、6つあったんよ。大手5社と洋画と。近松座は芝居小屋で、朝日館は時代劇。東映専門。中村錦之助とか。近松座は、桟敷席があって。映画、一番最初に覚えているのは「七人の侍」。近松座で。その頃ってね、芝居小屋が映画館になるのが多くて、長楽館なんかも、2階は畳のところもあったの。そのころの楽しみは映画全盛時代で。

旧西条市に、6つあったという映画館。のちに西条市となる旧周桑郡の壬生川、小松、丹原などにもそれぞれ「曙館」、「小松座」、「丹原座」などの映画館が点在していた、まさに映画全盛の時代。それぞれ、上映する映画の配給会社が異なったり、喫茶店を併設したり、個性を出して集客を目指していたようです。
かたや、新居浜はどうだったのでしょう。こちらは、青野メガネ店主・青野泰三さんの話から。

映画館はまず、宝劇場はね、松竹のやつをしよってね。新宝はわしが高校のときにできて。そこは洋画専門で。高校のときにできたのを覚えとる。あそこの横を通って学校いきよったんやもん。で、伊予銀のところに、三軒、映画館があったからなあ。大坪、東映、あとは・・・グランドか。敷島通から南と北とでは、ちょっと違うんよね。行動圏が。でも、南の方にも新宝館があったから、映画見に来る人はたくさん来よったけど。

新居浜市街にも、昭和通りや銀泉街の周辺に「新居浜東映」、「グランド劇場」、「大坪会館」、そこからやや離れて「キコクザ劇場」「文化劇場」、そして2000年初頭まで営業し、いまはライブハウス「Jeandore」となっている「新宝館」など、たくさんの映画館がありました。
映画館の名前からも推察できるように、配給会社ごとに大まかには上映館が分かれていたようですが、それは主に日本映画の話。洋画となると、話は違ったようです。

西条に洋画を見れる映画館がなくなってて。いつのまにか、日活ロマンポルノになって。そういうのはさすがに高校生だと行けないから。洋画は新居浜まで見に行ったね。西条にそんな洋画を見れるところなかったから、新居浜まで自転車漕いで、高校のときに、新宝館。あそこまで高校時代に行ってたなあ。プレスリーの映画。

西条からも来場者が多かったと推察される、洋画が見れる「新宝館」。当時の洋画スターは、エルヴィス・プレスリーにジェームス・ディーン、アラン・ドロン。どれも、20世紀を代表する世界的なスターです。
そんな映画スターに憧れた若者は数知れず。とくに男性にとっては、彼らスターがたばこを吸うシーンがとびきりかっこよかったようです。

タイトルはもう忘れたけど、ジェームス・ディーンがたばこを吸うシーンがあったんよ。それを見て憧れて、吸いよる人が多かったわいね。そのあとは、アラン・ドロンが吸いよるの見てかっこいいなあって。「太陽の季節」かな(正しくは「太陽がいっぱい」)。たばこ吸う時も、こんなところ(中指と薬指の間)にわざわざ挟んだりして、かっこつけとったんよ。両切りピースを吸ったりして。それがかっこいいと思ったのは、もうそりゃあ映画の影響よね。

日本映画も活況の時代。石原裕次郎を筆頭に小林旭や松方弘樹など、昭和の名優たちがスクリーンで大活躍していた時代でした。

日本の映画でもね、裕次郎はちょっとだけ不良なんよね。ちょっとだけ。もうちょっと危なくなったら、小林旭とかになる。裕次郎はしょせん、坊ちゃんなんよね。慶応ボーイだから。小林旭は、詳しい経歴はよく知らんけど、成り上がりな感じで。小林旭の不良な感じは、裕次郎よりは危ない感じ。
あと、松方弘樹とか。赤木圭一郎なんかは、日本のジェームス・ディーンとかって言われて。印象としてはあと一歩でスター、という感じだったよね。

とはいえ、映画についてはきらびやかな、華やかな思い出ばかりでもないようです。青野泰三さんの奥様のお話。

新宝館、中学のときなんかに映画見に行って。「ベンハー」。もうとにかくとっても怖くって。映画出てからずっと、こういう風に、耳をふさぐような感じで。わたしは中学校のときに、学校から行って。でも、みんな平気で見てるんだけど私は怖くてね、よう見んわ、と思って途中で外に出て。外に出たから、もう見えんのに、でも目をつむって。なんとかスコープいうて、広く見えるのをつけて。連れて行ってくれんでもいいのに、学校から「ベンハー」を見に行ったんよね。
※登場した「なんとかスコープ」は、正確には「シネスコープ」。映写機に取りつけ、特殊な方法を用いて横幅を圧縮して撮影した映像を横に拡大映写する機材で、迫力のあるワイド映像を映写することができました。

このような苦い思い出もあった映画ですが、とにかく当時は人々の娯楽の中心。スター俳優やひいきの俳優が出る映画は封切りと同時に見たい、という思いは今も昔も一緒でした。

松山は、一番高いところが大街道にあって。有楽館いうて、一等館いうて。一番に来るんよ、東京とおんなじタイミングで。封切り館よね。それを、行ってたね。
(値段の差があったんですか。)
そうそう。で、その何か月か後に、二番館、三番館いうて。ちょっと遅れてやるんよ。封切り館と、二番館、三番館。三番館なんか、6本立てとかが普通にあって。そりゃあもう、一番に見たいやろ。新居浜や西条にもたぶん、あった思うんよ、封切り館。

洋邦さまざまなスターが群雄割拠し、華やかな思い出もほろ苦い思い出も「いい思い出だった」と語られるような、映画館の思い出。

街中に点々とあった映画館は、TOHOシネマズやシネマサンシャインのような大型の「シネマコンプレックス」に姿を変えましたが、そこで封切りされる映画が人々の心を躍らせるのは、いまも昔も変わりません。

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