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【note限定エピソード】名物うどんを求めて猛ダッシュ! ―瀬戸大橋開通前、宇高連絡船の思い出

「塩飽諸島を橋台となし…(中略)…架橋連絡せしめば、常に風波の憂なく…(中略)…南来北向、東奔西走瞬時を費さず、それ国利民福これより大なるはなし。」

これは最初の「瀬戸大橋」構想として、1889(明治22)年5月に当時香川県会議員だった大久保諶之丞(おおくぼ・じんのじょう)が披露したものです。
この大久保の提案からおよそ100年後の1988(昭和63)年4月、10年の工期をかけて瀬戸大橋(本州四国連絡橋 児島・坂出ルート)が開通し、本州と四国が初めて陸路で結ばれました。
今回のエピソードは、この瀬戸大橋開通前の本州-四国間の主要ルートとして多くの人に愛された、香川県高松市の高松港と岡山県倉敷市の宇野港を結ぶ「宇高連絡船」についてです。

高松から宇野まで、1時間ちょうど。連絡船が。そこから在来線で岡山まで1時間か。
宇野に着いたら「急行鷲羽(1980年で廃止になった、宇野と大阪を結ぶ夜行列車)」があって、大阪まで夜は直通で行けたんよ。大阪に行くときは、それに乗って行ったかなあ。万博とかね。
だから、高松に着いたら、ダーッと走って、席にカバンを置いて、上のうどんを食べる。あれがね、楽しみだったねえ。そのうどんが、どうも後で調べたら、「かな泉」のうどんだったらしい。だから、ここらとは水準の違う、おいしいうどんだった。コシがあっておいしかった。それがのちに讃岐うどんとしてブレイクしたよね。
今考えると、子連れの人なんか気の毒だったなあと思うよね。若い人がどんどん走って、席を取りよったやん。相当走った記憶があるんよ。でも、今だったら走れんなあと。

宇高連絡船は、国鉄(1987年の民営化後はJR四国)が1910(明治43)年から営業してした海路。瀬戸大橋開業前日の1988年4月9日に連絡船とホバークラフトが営業終了、旅客専用の高速艇も1990年3月に営業を終了したことが如実に示すように、瀬戸大橋開通前の本州-四国間の大動脈として稼働していた航路です。
名物は、船上のデッキで営業していたうどん屋さん。通称「連絡船うどん」。連絡船を利用した方々のほとんどは、連絡船とセットでその思い出を語る、なじみ深いものでした。
新居浜や西条から鉄道で高松駅へ。当時、所要およそ3時間。高松駅に到着後、「ダーッと走って」船内へ。1959年から高松駅駅舎は現在の場所になっているので、連絡船乗り場まではおよそ400メートル。一息で走るには、なかなかの距離です。乗船後、席の確保に成功したら、晴れてデッキの「連絡船うどん」へ。乗降客が多い盆や正月は、なかなかの‘戦場’だったのではないかと推察できます。

乗り換えの時間が短い、ということはないから、やっぱり座る場所を確保するためなんよね。わざわざ走るのは。2等席を取るのに、追加で200円くらい必要だったはずなんよ。
(高松に到着して、まずは駅でうどんを食べて、そこから船に乗ってた、という方の思い出も聞いたことがあります。)
いやいや、あれは船で食べるのがうまいんよ。もちろん高松の駅にもあるけどね。で、船降りたらお茶ね。学生時代は倹約だったからね、買う時と買わない時があるけど。たしか50円。ちゃんと急須に入っててね。ふたがついてて。上にぽこん、とコップがついててね。
今でも覚えてるけど、そこから岡山まで出て、東京まで1310円だったんよ、片道。普通が。で、学割があって、半額だったんよ。だから、655円だったんよ。昼の12時何分に乗ったら、朝7時に東京に着きよったね。
冷凍ミカン、電車の中で買ったよね。冷凍ミカンが4つか5つ入ってて、ゆで卵と。網みたいな、ミカンの入った網みたいなのに入ってて。あれを買うもの楽しみで。

「船で食べるのがうまい」うどん。駅からの、決して短くはない距離の‘徒競走’の後ですから、うまさは格別です。
そして、倹約を旨とする学生たちにはちょっと高級品だったお茶。ペットボトルが主流となった今では想像できませんが、伊予西条駅前の「四国鉄道歴史館」に今でも展示されているように、当時は急須に小さな湯飲みがついたものが販売されていたようで、記憶ではそれが50円。インタビュー内に登場した東京-岡山間の鉄道料金と比較しても、確かになかなかの高額商品です。
さらに、岡山から東京など遠方へ足を延ばす際の楽しみが、網に入った冷凍ミカン。ひとときの涼と、空腹と、水分補給を同時に満たすことのできる、最良のお供でした。

海路に加えて陸路も空路も充実している現在とは、比較にならないほど遠かった昭和時代の四国と本州。宇高連絡船をはじめとしたその道中には、所要時間に比例するように多種多様の思い出が詰まっていたようです。

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