希望という病

10代最後の歳、カート・コベインに憧れてひげをぼうぼうに伸ばし、髪も伸ばし放題にしていた僕に、先輩がつけたあだ名が「下北のルンペン」だった。

狭いユニットバスで、ゆうに3週間は伸ばしたであろう髭をハサミで切りながらそんなことを思い出した。
風呂釜の底に、働き蟻の会合みたいな黒い染みができた。

これまた3週間かそれ以上ぶりに駅に向かう道すがら、よく晴れた空を見上げながら思う。あっちぃなマジで夏かよ、と。
EDCで買って蛍光ピンクのナイロンパーカは余計だった。熱い。目に毒なくらい光を反射している。

電車の中はソーシャルディスタンス。
曲名みたいだよね、ほんとに。

表参道は人がまばらで、晴れすぎた空を見上げながら、また思う。
エヴァンゲリオンの1話みたいだな、と。
世界の終わりの日は、こんなふうによく晴れた一日だろうと思う。
これだけは譲れない。
パンを焼きながら静かに待つ、その真上は雲ひとつない青空なのだ。

僕は、テーブルを囲み未来の話をしてきた。
とても楽しそうで、小さく心が躍る。
新しいことが始まっていく瞬間瞬間は、ただただ楽しい。
僕はそういう人間だ。
なかったものが形になることに、ひたすらに喜びを覚える。

そんな反面、昨日4/30という日が結構な節目だったりもしたが、いつか想像したよりもひどくあっさりしていて、なんの感傷もなく、こんなもんかと思いすらしなかった。
思いもしない程度に、新しいことで忙しかった。

とうの昔に、自分の中でそれは死んで整理がついていたんだろうと思うけれど。

節目、という言葉は好きだ。
何度もそれを迎えたし、作ってきたし、作ってしまってきた。
ネガティブなものが大半だった気もするけれど、それでも前に進んでいる感じだけは常にしていた。
それが逃走だとしても、全力で逃げて次にいけばいいんだと言ってくれたのは家入一真さんだった。
あの本に救われたことは、時々思い出す。

最近読んでいるライトノベルの章に記された言葉。
「絶望という病」

それをいうなら、「希望」も病である。
何度裏切られすり潰されようとも、それはいつしか芽生える。
そしてこの体を引きずり回す。
それでも笑っていられるのだから、とんでもない神経毒を発する腫瘍に違いない。

I wish I could eat your cancer when you turn black.

ポジティブとは筋違いの、イカれたハイテンションで、ヘラヘラと僕は未来の話をする。

鬼がどこかで爆笑している。

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