ある新聞配達少年の顛末

「アルバイトしたことありますか」と聞かれたら、みなさんはなんと答えるだろう。
よほど親に恵まれてでもいない限り、割と経験するものなのではないだろうかと思うけれど、それは上京してから、身の回りにフリーターばかりだったから感じることなのかもしれない。僕は、十数年ずっとバンドマンだった。

僕にアルバイトの話をさせると日が暮れるほど話題があるのだが、それは別の機会に譲るとして、思い返すとなかなかワーカホリックな人生だったように感じる。

初めてしたバイトは新聞配達。中学校2年生から始めた。
高校のときは、さらに酒屋の配達のバイトも掛け持ちしていたし、遊ぶ時間が少なかったように思う。
苦学生だったわけではない。成り行きである。お陰でお金は持っていた。
家は貧乏だった。

そんな新聞配達を、僕は上京後もやっていた。
新聞奨学生という制度があり、僕は端的に言うと、上京するためにそれを「利用」したのだ。

「音楽で飯を食う」と中学時代に宣言していた僕は、裸一貫上京するつもりだったが、それなりに小賢しかったので、親を納得させるために専門学校を選び、その学費と生活費はすべて新聞奨学生として賄うとこれまたぶち上げた。

そもそも、子供のやりたいことはやらせてくれる方針の母だったので、あんまり波乱はなかったのだが、それでも時折彼女が垣間見せる一抹の不安をねじ伏せようと僕が用意した作戦だったのだ。

その顛末を含む、15年前の今日の日記を開いている。

「2005年3月23日 21:17」

横書きのキャンパスノートの表題部分に書き込まれた日付の横には、カタカナで僕の下の本名が書かれている。

なぜ、自分の日記にいちいち本名を綴っているのか。
その頃の僕は、本名とバンドネームの他に、上の本名と、おそらく子供を意識した短い愛称の4つを使い分けて「その文章はどの人格が書いているのか」書き分けていたようだ。
短い下の名前についてはわざわざ利き腕ではない左手で書く徹底ぶり。

そんなことをして、一体何がしたかったのか。
おぼろげな記憶から推察するに、人生の中で3本の指に入る程度には自分のことがわからなくなっていた僕は、人格を分離させて客観的に見てみたり、役割を持たせたりしてみたかったのだろう。
ちなみにまったく長く続いていないあたりが、僕の中途半端さを物語ってもいる。

ちなみにこの時期、あまりにも精神的にどうしようもなくて赤羽の精神科、心療内科、どちらかわからないけれど、そこに通って薬をもらっていた。
有り体に言えばうつ病だが、医者は最後まで病名を言ってはくれなかった。
上の話とは関係あるようでなく、僕は人格が分離するようなほど症状はひどくなかったし、後にうつ病について自分自身で「詐病」と糾弾する文章をノートに綴ることになる。それはまた別のお話。

その程度の症状でやってきた初診の人間に、最強クラスの睡眠薬を処方したあの医者はヤブ医者だったんじゃないかと今でも思う。
問診でいきなり「普段死にたいと思いますか」と真顔で聞いてきて、ドン引きしたことを思い出す。

話を戻そう。
2005年3月23日の日記には、3月18日から22日までの出来事が短く分けて書かれている。
端的で、感情がほぼ吐露されていないからこそ、行間の感情が蘇る。

故郷で主催のライブがあり、準備不足で散々だったけれど、なんとかごまかしたという記述の最後に添えられる
「また、ごまかした。また。」

耳が痛い。
僕は未だに夏休みの宿題を最終日まで残すし、未だに準備不足を持ち前の器用貧乏さでなんとかその場しのぎしている。
いくぶんかマシになったとは思うけれど、15年前のつぶやきは、あまりに胸に刺さる。変わらない自分を見せつけられるようで。

金がないのも相変わらず。
消費者金融で10万を借り、そのタイミングで80万の借金があることが判明したという。
よくわからないままカードを切りまくりキャッシングをしまくっていた。
病気のせいにしていたが、実際頭は若干おかしかったように思う。

その10万はというと、引越し費用に使われた。
なぜか。

あと一年を残して、新聞奨学生を辞めたからだった。
アパートを出ることがすでに決まっており、どこでもいいから引っ越さねばならなかった。
専門学校は、前年の夏にとっくにクビになっていた。

ドヤ顔で親や周りの人間に胸を張って話していた上京プランは、ボロボロに崩れてぶっ壊れたのだった。
僕の頭と一緒に。

それでも僕は、ノイローゼになりかけていた板橋の新聞屋から出られることで希望に満ち溢れていた記憶がある。
新生活への期待に胸を膨らませていた気分が蘇ってくる気さえする。

だから、その程度の気分で、うつ病が治ったかのように思った。
そう、その程度だから。
うつ病だったかどうかなんて、本当に怪しいのだ。

日記は、こう締められる。

「クスリはやめた。病院もやめた。
 うつ気取りはやめ。もう、本トに自力でやるしかない」


その言葉に、不思議と悲壮感は感じない。
「自力」という言葉に、無責任な力強ささえ込められている気がする。
だが、希望で腹は膨れない。
ダメなヤツがいきなり更生もしない。


僕は、その7ヶ月後にオーバードーズで病院に運ばれる。

飲み干したのは、赤羽の病院でもらった、睡眠薬、17錠だった。


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