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応援と言う相互的関係性の考察

「応援したいスポーツは何ですか」と聞かれると正直よく分からないけれど、今私が応援してるスポーツはラグビーだ。かれこれ3年ほどラグビー選手を応援することに楽しみを感じている。

私がラグビーにのめり込んだきっかけについては別の記事に書いたし、のめり込んだ理由のなかで応援についても軽くふれてるので一部内容が重複すると思う。そこはまず詫びておこうと思う。

が、スポーツが失われたいま一番考えたいのはこの企画のテーマでもある「応援」と言うものだと思う。今回は応援を軸に考えてみたいと思う。

応援の意義とは?

応援(オウエン)とは
[名](スル)
1 力を貸して助けること。また、その助け。「選挙運動の応援に駆けつける」「応援演説」
2 競技・試合などで、声援や拍手を送って選手やチームを励ますこと。「地元チームを応援する」
(コトバンクのデジタル大辞泉の解説より引用)

この解説を見ると応援と言うのはする・されるの明確化された一方的なもののように思える。しかし実際のところ応援はかなり相互的なものだと感じる。

特に昨今はファンと選手の交流がウェブ上で直接行われ、ファンの応援に対する感謝の声を選手自身の言葉で聞くという事も多い。今回も選手やチーム公式からファンへのメッセージ動画があったりして、応援という相互コミュニケーションが活発に行われているように思う。

アルビレックス新潟のように親会社がなく今回の騒動で経営が厳しくなったことが判明したクラブでファンによる買い支えが起きたのを見ると、応援と言う関係性の相互性がよりわかると思う。仕事がなくなった音楽家や芸人さんにも同じようなことは起きてるし、ローカル鉄道の「乗って残そう運動」にも少し似ている。

こうして見ると応援する・されるという関係はスポ―ツのみならず、広い範囲で日常的に行われていて常に私たちはその相互性の中にいるのだとわかる。



では、ここで死ぬほど身もふたもない質問をしたい。

「ぶっちゃけ、スポーツチームを応援することにメリットはあるの?」

最高に身もふたもない質問だが、鉄道を残すために私達がお金を使うという行為には自分の生活の足を残すというメリットがある。お店であれば自分で作れない味を今後も安定的に手に入れられるというメリットがある。

しかしスポーツが与えてくれるものはなんだろう?

スポーツチームを応援・支えることで私にどのようなメリットがあるのだろう?

私が釜石シーウェイブスを応援するのは、「チームの物語性を追い続ける楽しさ」と「釜石シーウェイブスの応援席に仮想故郷を感じている」という二つの点だ。この辺の詳細は話がずれるので過去記事見てください。

応援するということは、私的な経験であり金銭的・物理的メリットなんてないのではないだろうか?

じゃあ、私はラグビーを見ることに何を得てるのだろう。

あなたが野球やフィギュアスケートを見に通う事で、チームは何をくれたんだろう?

きっとその答えは人によって違うと思う。スタジアムでの交流で出来た友達とか、完成された美しいものへの楽しみとか、みんなで一つのモノを叫ぶ一体感とか、空の下で酒を飲む楽しみとか、人によると思う。

ここで私の回答を一つだそう。

「私が応援するチームから貰ったのは、長い長い物語だ」

釜石シーウェイブスを応援することで、私は釜石シーウェイブスと言うチームの膨大な物語をより深く・長く見る事が出来る。それは終わりのない映画や膨大な人間の視点でつづられる群像小説みたいなものであり、その物語を私は私の視点でつづる事が出来る。

いま私の手には釜石シーウェイブスという膨大な群像小説があり、応援という行為を通してその語り部に加わることが出来、無数の語り部たちの視点が釜石シーウェイブスという物語を続けている。

ひょっとすると、スポーツを応援するということは実はそう言う事なのかもしれない。