「女嫌いの女体好き」はどうやって自分を正当化するのかの実例:創作のための戦訓講義58


事例概要

発端

※女性の人間性を嫌悪しながら性的欲求解消のために女性の身体に関心を持つ男性を「女嫌いの女体好き」と表することがある。

※上記はそれに対する正当化のひとつ。ここからさらに……。

※……という責任転嫁的な話へ発展する。

当然の反応

※「女の言う「女嫌いの女体好き」は 「精神や人間性を無視してガワだけ消費するキモい奴」て意味」これでだいたいオチている気がする。

自身の反応

個人見解

詭弁を解く:mg編

 さて上記ポストで当時はひとりの例にしか反応しなかったわけだが、大元のポストを追うとそっちもだいぶあれだったのでこちらから処理したほうが良さそうだ。

 ねむみちゃん氏のポストでだいぶ説明はついている。そもそも「女嫌いの女体好き」とはまさにmgのような人間を指す言葉なので、当のmgがそこに何を弁明しようとも評価から逃れられることはできない。カレーライスが「でもでもだって」と言い続けても、ライスの上にカレールゥをかけた存在であることを否定しない限り彼はカレーライスなのだ。

 「女嫌いの女体好き」はまさしく、女性を嫌っているにも関わらず、自身の欲求のためにその嫌っている女性の身体を利用しようとしているからこそ気持ち悪い、という評価なのだ。まさにmgのような精神性を表すための言葉であって、この点、評価は妥当と言う他ない。

 女性の精神性を「醜悪」と評するなら女性の身体を用いて性欲の解消などしなければいいのに、という素朴な感想しかない。mgのような男からすれば女性の精神性と身体性は分離可能かつ、身体性のみを使用することができるという想定なのだろうが、まさにこの「女性から身体性のみを分離し利用する」という点こそが性的利用であり性的搾取というわけだ。

詭弁を解く:佐藤編

 さてどちらかと言えば本題の佐藤の件だが、彼の主張をまとめるとこうだ。男性は女性の本体、より明確に言い換えるなら本質を精神にあると思っている。女性は身体こそが女性自身の本質であると思っている。ゆえに「女嫌いの女体好き」と表現したとき、女性は「本質である身体を好きでいるくせに嫌いって矛盾している」となるが、男性にとっては「精神こそ本質なのだからそんな認識じゃない」となる。つまり「女嫌いの女体好き」という認識自体、精神を本質とする男性の視点では成立し得ない、と。

 実はここで佐藤の理論はmgの理論と食い違っている。mgの理論はあくまで身体と精神は分離可能であるという視点に基づき、ゆえに女性の身体を好きでいる一方、女性の精神を嫌いであることは成立する。だから「女嫌いの女体好き」という指摘はまったくクリティカルじゃないと主張しているのだ。

 佐藤の理論では心身の分離可能性自体は重要ではない。男性と女性で人間の本質を精神と身体、そのどちらに置くかが異なるという発想が根幹にある。女性にとって人間性の本質は身体である(と佐藤は考えている)ので「女嫌いの女体好き」は支離滅裂で、こんな状態にある男は頭がおかしいとなる。しかし男性にとって人間性の本質は精神なので、そもそも『女嫌いの女体好き」なる状態は成立しない。だから「男にとっては「体に自分の本体を置くなんて低俗な自己認識を採用するわけがない」」のだ。

 一見mgの主張に賛同しているように見える佐藤だが、その実彼の論理展開はmgのものとまるで異なる。「女嫌いの女体好き」という表現に対し、前者は「それは当然で批判にすらなっていない」というアプローチで無効化するのに対し、佐藤は「身体を本体と思う女の低俗な認識では、そうなんだろうね」と自身の認識を女性より高次であると規定することで回避しているわけだ。

 いろいろ突っ込みどころがあるが、佐藤個人の方を先に片付けると、これは典型的な責任転嫁である。女性の本質を身体と思っているからこそ、あるいは本質とは言わないまでも価値ある大部分と思っているからこそmgのように心身を分離し、身体性のみを性的に利用しようとする男が現れるわけである。そうした男に対する批判的表現こそ「女嫌いの女体好き」という表現だ。ところが佐藤はこの批判を回避するため、「女体に着目するってことは、君たちはそちらを重視しているんだね?」としらばっくれたわけだ。やっていることは「エロいと思ったってことはお前らのほうがエロいんでーす!」と大差ない。

食い違わない両者

 さて興味深いのはmgと佐藤の両者が、ともに本来ならかち合うはずの認識を持ちながら互いを批判することはせず、矛先を自分たちを指弾する女性へ向けているという点だ。

 佐藤の理論が正しければ、女性の身体性に利用価値を見出しているmgは批判するべき存在だろう。mgにとって女性の本質は身体……かどうかまでは定かではないが、比重は重いはずだ。逆にmgからすれば佐藤の言は、女性の身体に一定の注目を置く自身を低俗な存在に仕立て上げるものでもある。

 ところが両者は互いに批判を展開しない。無論、佐藤のポストに対しmgのポストはかなり過去のものなので、そもそもmgが佐藤の言及に気づいていない可能性は高い。だが仮に両者の発言が近しい時期に行われたとして、私個人の見解では、両者は互いを批判しなかったのではないだろうかと思っている。

 まさに直近では能登震災の際、自衛隊の出動が遅れたなどの時の政府の震災対応の批判に対し「遅れていない」「遅れたのにはきちんとした理由がある」という相矛盾する指摘が生じ、しかしそれらが互いにぶつかることなく、批判者に対してのみ矛先を向けるような事例があった。

 実のところこうした事例は極右論壇ではたびたび生じており、「GHQの陰謀」と「コミンテルンの陰謀」は互いに肩を並べていることがある。

悪意の責任転嫁

 最後に佐藤の発言に対し私が言及したことをまとめ直そう。「女嫌いの女体好き」とはまさにmgや佐藤のような人間を指して批判するための表現だ。ところが佐藤は「女体という表現を用いるのだから、相手は女体に強い関心があるのだろう」とずらす。佐藤らのような人間を批判するためにこそ、彼らの人間性を評して「女体好き」と言ったのに、彼ら自身は自分たちを透明化し、ボキャブラリーを選出した側だけに注目する。

 自身を透明化し、すべての攻撃性と悪意を他者へ責任転嫁する姿勢はここしばらくネットで見るものだと個人的に思っている。こうした責任転嫁的な思想はある種現代的な、あるいは普遍的な人間の悪性のひとつとして、創作などで役立つ観察結果なのではないかなと。……なんか最後無理にまとめようとした感じだが、実際私はこうした透明化と責任転嫁の性質を自作の悪役に適用できないかとここしばらく考えているところだ。

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