作者が相対化・批判しようとした対象が鑑賞者に崇拝されるケースについて:創作のための戦訓講義23


事例概要

発端

個人見解

 作者は作品に対し責任を負う。鑑賞者が作品から受ける影響についても基本的にはそうである。だが、作者が負うことのできる責任は、一般的な読解力と常識的な読解によって導かれる作品解釈についてのみである。

 例えば先日、女性支援団体を中傷する目的で、団体をモチーフとしたAVを販売した事例があった。

 あれを見て鑑賞者が団体に中傷をしたり、その他支援活動をしている女性への攻撃性を高めた場合、それは鑑賞者の責任であると同時に、作者の責任に帰すことができる。作品が団体や活動をしている女性を中傷していることは、妥当な読解によって容易に導けるからだ。作者には作品を通じ、誹謗中傷のネタを提供することで鑑賞者を煽りつつ金銭を得ようとした責任がある。

 だが妥当な読解の域を超えて作品が特定の愚かしい主張のアイコンとなってしまった場合は、作者の責任に問うことはできない。作者にとってそんな愚かしい読解は理解の埒外だし、コントロールを試みることすら不可能だからだ。「こんにちは」と挨拶をしたら「あいつは俺に殴れと命令した」と言われたようなものだ。

 こうした作者と鑑賞者の責任は程度問題であり幅がある。解釈自体は妥当でも時代的な要素を受け解釈が変わり、作者が予期しない読解がなされるということもある。作品が発表された場所や、ビジネス上の展開という作品に関連するが作者のコントロールできない状況も存在する。そのあたりはケースごとに見極めるほかない。

戦訓

 鑑賞者の常軌を逸する読解とそれによる影響の責任を作者は負うことができない。責任を負うべきか否かというより、負えないのだ。あまりに妥当性を欠く解釈の発生とその影響など、妥当な知能を有する作者にはおよそ想像できることではない。

 裏返せば、作品の妥当な読解における範囲においては、鑑賞者が受ける影響に作者は一定程度の責任を負う。無論、その程度は影響の多寡や状況によって推移する。一方的かつ定見的に作者と鑑賞者の責任の有無は決められない。

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