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新月ですね、再誕の時。/凛として時雨『EneMe』

昨日に引き続き時雨にて。

今日は新月。

牡牛座に新月が11時半頃から滞在。
牡牛座が司るテーマは『愛・美・お金・健康・五感・資質・才能』

牡牛座ってまさに、今のみんなが求めてること全部を担ってる星座だったりして、そりゃあもう今回の牡牛座はすごいのさ。
そういう私は先日誕生日を迎えた太陽星座牡牛座ヤローです。

ほんとはねー
新月ってのは新しいことを始めたり願いをかけるのに最適な時。
うん、それでいいんだよ、それで。

みんなは今日か明日にでも、自分が豊かになる未来を好きに描いてちゃんと願ってね!
まじで、それ大事だから。

ただ、私は昨日に引き続き、もうちょっとだけ自分を解放したいからここに書かせて。


牡牛座は『資質』を表す星座。
わたし的には自分の資質の大解放が必要なターンにめっちゃ入ってる、と感じているので、ちゃんと手放してから未来に向き合いたいので。
この場を借りて。

その内容が、凛として時雨の『EneMe』で。

この歌詞の中に
『Happy rebithday Have a knife day』という、すげーイカしたサビがある。

私はこの45歳の誕生日が生まれ変わりの誕生日だってずっと長年思い続けてきて。
算命学の大運天中殺終了が45歳の誕生日なのね。

私の大運天中殺はちょっと特殊で、通常の人は20年間なんだけど(中には回ってこない人もいる)、私は生まれた時から44歳までという長い間ずっと大運天中殺で暗中模索する宿命をもっていて。

更に言うならば、生まれた月が自分の天中殺にあたるので(それを生月中殺という)、生まれた時から自分の居場所が見えない感覚を持たされることになる。


すなわち、私は闇から生まれてる人間なんよね。
ずっと虚無感がつきまとう宿命。
常に存在証明を求める資質が備わる。

このなんとも言えない彷徨う感覚は、生月中殺を持つ者同士にしか分かり合えないもので、他者から見れば全く持って摩訶不思議な感覚ではあると思う。

知り合いが多い輪の中にいるときほど疎外感を感じたり、ふと自分は存在していないような感覚に陥ったり。むしろ初見の人に対してのほうが安心する。
だから、急に逃げるかと思えば急に交わりたいと思ったり。

氣が常に彷徨っているのだ。

生月の方を鑑定して、このお話をするとほとんどの方が「その感覚がわかる人がいてくれた」と泣き出し、自分の宿命を受け入れることができて自分を責めすぎないで済んでくれることが多々あります。

これは特に身内や親しい人、好きな人に対して思う虚無感であり、かたや社会に対しては大きな貢献を果たす宿命を担っている生まれでもある。


何故か?


ずっと闇育ちだけど(笑)そこでもがきにもがきまくってきた経験は社会に対して相当な反骨精神と七転八倒の不屈の精神を手に入れることになる。
その上で、弱者的目線で客観的に社会を捉えていくということができ、最終的に改革の力に発達するということ。

そのように、社会、他者に対しての貢献心や反骨心が育てば、闇に生きてきた人たちは氣が安定してくるのだ。
綿密に言うと、安定するというよりはちゃんと


『生きている、存在している』

という感覚を得られるようになり、それがなによりも強いエネルギーに変わる、ということだ。


だからこの『EneMe』にある

🎵ねえ、不安定なナイフで甘刺しするなら 息の根を止めてしまえよ

という極端な発想は、実は効果的な治療法でもある。


彷徨っているものにはきっちりと道標を、指標を示してあげることが必要不可欠なのだ。
一見、ひどいなと思えることでも、どん底に一旦落ちてしまえばあとは這い上がることしかないことは、闇でもがいてきた人なら分かる感覚だろう。

闇は闇でも、甘刺し(甘んじて)で生き延びてきてしまった者は、這い上がるという発想には恐らく至らずにそのまま壊れていく。


ここで

🎵僕色を抜き出したって 君色を抜き出したって 無限に僕は生き返るの kill me kill me kill me freeze me

というフレーズが突き刺さる。


まさに。

今、私は、ここ。
ここの地点にいる。


もう何度も生き返ってきた。
その私をナメんなと思う。

これは自分に対しての勝負魂。
社会に対しての勝負魂。

闇育ちで何回も死のうとしても死ねなかったわたし。
そのたびに悔しくて生き返ったわたし。

ただ、そこには虚しさや悲しさだけが渦巻いていたのではない。
名も知らぬ人に助けてもらったことや、自然の偶然が重なって命拾いしたこと、人の情けが存在していた。

同情は嫌いなんだ。
クソがつくほど。
分かったつもりになってんなよって思うから。

情けは必要だ。
その情けとは相手と『同じ』レベルに合わせる必要は全くない。

その人なりの情けを正直にかけるべきだ。

共感と同情は紙一重なのだが、共感は経験あってのことであり、リアリティだ。
同情とは情けを合わせようとしている一種の偽善的感情。

この違いはかけられた本人にしか分からないと思う。

「同情じゃないよ」と言うのならば、腹の底から思いを伝えれば良い。
腹の底からだ。
時間をかけて。


それができなきゃ結局それは偽善だったと諦めて、そんな無駄なものは捨てて進むだけ。

そうじゃね?


まあでも、ひとつの経験にはしてもいいかな(笑)
ネタとしてな

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