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DIR EN GREY TOUR23 PHALARIS -Vol.Ⅱ感想。

前回の日向坂とKing Gnuのライブに行った話に引き続き、今回もライブ参戦の話です。

5月に「DIR EN GREY TOUR23 PHALARIS -Vol.Ⅱ」に行ってきました。
全国8か所、15公演のライブツアーで、日程はこんな感じでした↓

※おことわり
本文中では、楽曲で表現しているグロさやエグさを表現している箇所がいくつかあります。
苦手な方はブラウザの「戻る」ボタンを押していただくことを推奨いたします。

自分は、5月13日のZepp Nagoyaと、5月22日のZepp Hanedaの公演に行きました。DIR EN GREYのライブツアーで複数公演行くのは今回が初めてでした。
昨年末、8年ぶりにDIR EN GREYのライブに行って以来、この人たちが作る音楽ってやっぱり良いなと感じ、今回のツアーも参戦しようと思い至りました。熱量も高まりつつあるけど、ブランクも長かったから分かっていることも少ない…そんな想いでの参戦でした。
ライブの趣旨としては、最新アルバム「PHALARIS」を引っ提げての全国ツアー。昨年も同様のツアーを行っており、今回はその第2弾という位置づけのようです。昨年末に行ったライブでは昔の楽曲もたくさん披露されたので、「PHALARIS」収録の楽曲をメインに据えると、また違った雰囲気のライブになるだろうと期待していました。

※参考:昨年末に行ったライブの感想はこちらです↓

感想を話す前に、今回引っ提げているアルバム「PHALARIS」について少しお話しさせてください。
どうやら「ファラリスの雄牛」という、古代ギリシアで設計された拷問器具から着想を得て制作されたようです。

だからなのか、最新のアートワークではボイス(ボーカル)を務める京さんが、雄牛をかたどった器具を装着しています。アルバム収録曲のひとつである「The Perfume of sins」のPVでは、その器具を装着して動く京さんの姿が見られるのですが…まるで拷問されてもがいているようにも見えます。
また、このPVでは、奴隷の姿をした子たちがファラリスの雄牛に閉じ込められて処刑される痛ましい描写などもあります。今回のライブでこの曲が披露されたときも、ステージ背後のスクリーンにそのシーンが映っていて、思わず目を背けそうになりました。でも、どこかの時代のどこかの場所で実際に起こったことだし、これが彼らの歌う「痛み」だと思うと、ちゃんと受け取ろうと思って観ていました。

また、アルバム収録の他楽曲に関しても、「13」は2人の人間が足を縛られて逆さに吊るされている映像から始まるし、「朧」は幼児の虐待死を歌っているし…。とかく、根本に『拷問される人間の痛み』が感じられるのです。
そして、今回のライブには『拷問され続けた我々への救い』を感じられました。「我々」が拷問の対象だったと言うのは唐突かもしれませんが、「コロナ禍」における我々の日常は十分、拷問の日々だったのではないか、と感じたんです。ウイルス自体の脅威は言わずもがなですが、生きづらさを感じることも多かったです。経済は停滞し、趣味や娯楽は悪とみなされ、会いたい人にも会えない。こうしたライブに行ったとしても、感情を声にして分かち合うことも許されない。日頃、職場などでマスクをして会話しているのに、それと一体何が違うんだろう、みたいなモヤモヤもずっと頭の中にありました。
コロナも以前ほど騒がれなくなりましたが、騒がれなくなった、つまり『口にする機会が減った』だけで、今もなおウイルスの脅威は変わらずそこにあると思います。
そんな中、ようやく(マスク着用という条件付きではありますが)声出しOKになるライブも増えてきて、今回のライブでも声出しが許可されました。日常における「救い」が少しずつ増えてきたなと感じました。

そんな思いで今回のライブを振り返ると、何かの楽曲のときに京さんが放った「今日は溜まってるモン全部ぶつけにこい!!俺が掃き溜めになってやる!!」という煽り文句が、鮮烈な印象を以て思い起こされます。確か、5月13日のZepp Nagoya公演でのことでした。
心の中に痛みやモヤモヤを溜め込んでしまうのって、多くの場合は「誰も悪くない」「誰が悪いのか分からない」ことが理由なのかなと思っています。これはきっとコロナ禍であるか否かに関わらず、だと思います。
そんな中で、自ら掃き溜めになって痛みやモヤモヤを引き受けると言ってくれた京さんに、懐の深さを感じました。歓喜の気持ちだけでなく、やり場のない想いを吐露できるようになったばかりの我々にとって、その言葉が救いのように感じました。

あとは、このライブを通じてとりわけ好きになった楽曲「人間を被る」についてお話ししたいです。
京さんと一緒にサビを歌ったのですが、そのときスクリーンに映された歌詩がこちらです。

誰が正しいとかどうでもいい 誰のルールで生きている?

この歌詩を口ずさんだ瞬間、自分の心に深く刺さる感触がしました。
これも、コロナ禍で常識やルールが目まぐるしく変わったり、人によっても異なりがあって対立したりする時間を多く過ごしてきた所以だと思います。本当は何が正しいのか?と思い悩んだのに「個人の判断に委ねる」結論になったものも多く、じゃああんなに悩んだ時間は何だったんだよ!と、個人的にはちょっと怒りを覚えていることも事実です。
だからこそ、誰が正しいわけでもないし、最終的には自分が信じたルールを選んで生きてもいいんだなと感じられました。誰が正しいとか「どうでもいい」という、今の世の中に対する諦めが感じられる投げやりな表現もまた印象的です。

その後すぐ、このような歌詩が続きます。

誰のために生きる 誰のために生きるのだろう?

これも、コロナ禍で周囲の目に敏感になっていたけど、「誰のために生きるのだろう?」という問いかけの裏に「まずは自分のために生きればいい」という想いが隠れているように感じました。

「人間を被る」は2018年4月、世間がまだコロナ禍とは程遠かった頃にリリースされた楽曲なのですが、コロナ禍を経てから聴くことで「救い」を感じられたことが印象的でした。

そして、ライブ終了後。
気になりすぎて「人間を被る」についてあれこれ調べました。
歌詩だったり、感想が書かれたブログだったりを調べていく中で、YouTubeにアップロードされているPVがヒットしたので観てみました。
内容としては、フードを被ったメンバー5人が円卓に座っている。円卓上にはドーム状のカプセルがあり、目隠しをされた人間が入っているのですが、ふとした拍子に切れ目が入って輪切りされる。メンバー5人がフォークとナイフを使ってステーキを食べるシーンもあるのですが、その肉ってもしかして…?
食後、円卓に突っ伏す5人。色とりどりの絵の具が降りかかっていますが、まるで血飛沫がかかって死んでいるようにも見えます。京さんだけは起き上がるのですが、顔面が左右に裂けて、中から人間ではない生物の手が出てきて…という終わり方。
おそらく、我々人間は人間の姿形をした着ぐるみのようなものを被っていて、その内面に居るのはもっとおぞましく、異形の存在である…。そんなことを表現しているように思えます。そこまではいかなくても、うわべは理性的で公平な人のように思えても、内面では憎悪や嫉妬といった感情が渦巻いているのが人間だよ、(けどそういうものなんだよ)ぐらいに捉えてもいいのかもしれません。
いずれにしても、人間を「被る」という表現が今の自分にとってすごくしっくりきて、これもこの楽曲が印象に残った所以だと思います。

そんなこんなで、つらつらとお話ししてきた今回のライブの感想。
人間の痛みを歌うという独自の路線を長年貫き通してきたDIR EN GREYの存在が、今の自分にも必要だと改めて感じられました。
世の中、『生きる希望』といった前向きなメッセージを発信してくれる人は多いですが、「痛み」や「死」といった後ろ向きなものを発信してくれる人たちは少ないと思います。だけど、そうした後ろ向きなメッセージの裏にこそ、『本当は精一杯生きたい』という、か細くも力強い、前向きな感情が宿るのだと思います。きっと、そうした感情に気づける機会が今のご時世には希薄なんだけど、必要なことなのだと思います。
11月からはこの「PHALARIS」を引っ提げた、最後のツアーがスタートします。今よりさらにご時世が変わっているであろう時期に、自分が何を感じられるのか、今から心待ちにしていようと思います。

おまけ:ツアー中のメンバーSNS投稿の紹介

自分は、京さん(Voice)とShinyaさん(Drums)のSNSをフォローしていまして、お2人の投稿の中からいくつかご紹介です。

■京

ライブ中に言語化していなかった想いを、SNSを通じて伝えているように感じる。「おつか(=お疲れ様)」という表現に可愛げを感じる。

■Shinya

ライブ後にいつも自撮りをあげてくれる。顔がブレていたり隠れていたりする写真にはちょっと笑ってしまった。やはりこの方も非常にチャーミング。

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