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オカエリナサイ、エヴァンゲリオン

さようなら、エヴァンゲリオン、というのはとても印象的な言葉で、きっと誰もが使いたくなるであろうということで、天邪鬼な私は庵野監督の過去作になぞらえて、敢えてタイトルをオカエリナサイにしてみました。それでも決して間違った言葉ではないと思います。私たちはずっとこの時を待ち続けていたのですから。

※この記事はネタバレ満載ですので鑑賞後にお読みいただければ幸いです。

新劇場版公開から16年、TV放送開始からは実に26年、長岐にわたって描かれたエヴァの物語は2021年に遂に完結を迎えました。以前にセカイ系解説記事にてエヴァについて触れたところからもお察しの通り、私もエヴァに魅せられた人間の一人です。

人の造りしもの

実は、私がエヴァを初めて見たのは放送終了から3年後の1999年で、放送当時のブームには乗り遅れてしまった人間です。今では考えられませんが、当時の私は「ロボット」アニメがとにかく嫌いでした。

ドラゴンボールやるろうに剣心など、生身の人間が修行によって己を鍛え、血を流し、傷つきながらも己の身一つで強敵との戦いを繰り広げることこそが絶対の正義であり、ロボットに乗って戦うなんて邪道である、と思っていたからです。

そのため、ロボットアニメというものを一切見たことがなかった私は、スーパー戦隊シリーズのイメージから、ロボットの戦いはノロノロした動きでスピード感がなく、爽快感やカッコよさに欠けるもの、と考えていました。

ガンダムやマクロス、勇者シリーズなどの当時既に大人気だった「ロボット」アニメは全くの興味の範疇外であり、それはエヴァについても同様でした。尚、当時はトップをねらえはもちろん、ふしぎの海のナディアも見たことがありませんでした。

ただ、そんなロボットアニメ嫌いの私を変えたのは発売以来後にも先にもこれを超えるゲームはない、と言い続けて止まない「ゼノギアス」です。1998年に発売されたこのゲームは、ロボットと生身の戦闘の二段構えで構成されたRPGで、SFの古典や宗教、哲学、科学から古今東西のロボットアニメまで、様々な厨二心をくすぐる設定・演出が満載で、ロボットに心理的な抵抗感を持っていた私に、ロボットを操縦して戦うことのロマンを教えてくれました。

ゼノギアスにはエヴァの要素も数多く含まれていると知ったことからエヴァに興味を持ちました。いざアニメを見てみると、そこには私が今まで想像していたような、大きなロボットがガシャガシャと音を立てながらノロノロ戦うような戦闘シーンなどは存在せず、むしろ第7使徒イスラフェル戦や第10使徒サハクイェル戦のようなアクロバティックかつダイナミックな戦闘シーンに衝撃を覚えたのでした。

あーそーゆーことね、完全に理解した←わかってない

ただ単にロボットが敵を倒して終わる話ではなく、第拾四話「ゼーレ、魂の座」以降は哲学的、心理的で難解な話が多かったのもまた「何これよく分からないけど難しくてカッコ良い!」と、とにかくエヴァに夢中になりました。

斬新で実験的な演出や戦闘シーンだけではなく、必要以上に世界観や設定について説明を行わないことで視聴者に推測させることこそがエヴァの醍醐味です。他に類を見ない演出、難解な用語を独自に解釈したり分析したり、誰かの考察を読み込んだりと人それぞれの楽しみ方があります。

見ている時間そのものよりも、見た後に考える時間の方が遥かに長く、そしてそれがまた何よりも楽しめる作品、それがエヴァ
なのです。

様々な考察を読み進めると、庵野監督はこの時きっとこう考えていたからこういう演出にしたのだろう、などと作品内に留まらず、製作者の心理分析にまで及ぶのですからこの作品がいかに異例であり、庵野監督の独善的な作品であるかが分かります。

正直、どこまでが意図したものか図りきれず、実は大した意味もないのに難解な用語を使用し、あえて説明不足にすることで視聴者が独自に解釈してくれるだろう、と投げているのではないかと疑ってさえしまうのですが、それさえもまた魅力と思えるのが不思議なところです。

静止した映画館の中で

シン・エヴァンゲリオン(以下、シン・エヴァ)は、新劇場版の完結作ということで、多くの人が期待と不安の入り混じった気持ちで映画館に足を運んだことでしょう。

果たして本当に完結するのか、また意味不明で丸投げな演出による終わり方で翻弄されるのではないか、風呂敷を広げるだけ広げて終わってしまわないか、と。

特にQを初日初回の映画館で観た時には、破の最後に流れた予告編とはあまりに違う内容で、いきなり14年の年月が経過しているという衝撃の展開に、開始数分で大混乱した頭のままでの視聴を余儀なくされ、一体何があったのかを考えながら、目の前で展開されている話に追いつこうと必死でした。

私は今何を見せられているんだ?破の続きを見にきたはずなのに・・・と思ったことを今でも覚えています。この時の感覚がもはやトラウマとなっている私は、シン・エヴァを観に行く前にどんな展開が来ても絶対受け入れる、という強い覚悟を持って臨みました。

アスカとシンジとレイが3人歩いて行くところから話が始まるどころか全く別の話が展開されることは普通にあり得ることだとさえ思っていました。

ところが、いざ蓋を開けてみると、驚天動地の作品となったQの続編とはとても思えない正統な続編が描かれていて、逆に驚かされる結果となりました。

数々の伏線や疑問に対する回答がゆっくりと丁寧に与えられ、旧劇場版を彷彿させるような場面もあり、旧劇場版で何をしたかったのかも垣間見ることができ、難解な用語の正確な意味までは不明でも話の内容だけは自然に頭に入ってくる、というエヴァらしからぬ「易しい」演出でした。

「易しい」のは物語の理解だけではありません。かつての旧劇場版では最後の最後で自分以外の誰かの存在を許したシンジでしたが、シン・エヴァでは先に大人になった友人達に温かく「優しく」見守られたことにより、早々と自分を許し他者を受け入れる器量を得たことでエヴァの呪縛に囚われた人々に居場所を与える、という驚くべき成長を見せました。

孤独なシンジに対して、安易で優しい言葉をかけるでも厳しく責めるでもなく、ただただ時間をかけて優しく見守ることで、同情や憐れみではなく、みんなシンジのことが好きなだけだと気づくことができたのは、シンジにとってどんなに救われたことでしょうか。

対してQのヴィレの面々と第3村のかつての同級生たちは、実に対照的に描かれていました。Qの大人たちはみな彼を拒絶し迫害するだけであり、だからこそ、唯一彼を受け入れてくれたカヲルに対してだけは心を開いたのです。カヲルの死は彼の心を閉ざすには十分過ぎるものでした。

目覚めたら突然14年の年月が経った状況で、誰よりも孤独なシンジに対して、周りの大人たちは何の説明をすることもなく「行きなさいシンジ君!」と焚きつけた当人であるミサトも、世界が滅びかけたら掌を返したように冷たい態度。

何もしなかったらもっと酷い結果になっていたにも関わらず14歳の少年に全ての罪を押しつけて一方的に迫害するという物議を醸す展開だったと思います。

第3村はシンジだけではなく、私たちにとっても大切な場面であり、Qでの怒りや悲しみ、大人たちへの失望に対して私たちの溜飲を下げてくれました。今までのエヴァでは決して描かれることのなかった優しく穏やかな時間が流れていて、この映画で一番良かった場面かもしれません。

シン・エヴァは人の優しさと温かさ、世界の美しさ、生きることの尊さが全面に押し出された所謂人間賛歌です。それも理想の押し付けや説教くさいものではなく、ただただ無垢な存在である綾波レイのそっくりさんを通すことで、あくまでエヴァらしさを残す形で自然に描かれていました。

エヴァと穏やかな農村というものは凡そかけ離れた存在であり、それは今までのエヴァでは全く考えられない、明らかに違うベクトルで作られています。

月日変われば気も変わる

作品を見る上であまり作り手の心情がどうこう言うのは好きじゃないのですが、こればかりは本当に庵野監督自身の価値観が変わったのだと思わざるを得ませんでした。

社会と相容れない生き辛さを感じながらも、結婚や鬱を乗り越えて、エヴァという最高傑作を作ってしまったが故の呪縛に捕らわれ、四半世紀をかけてようやく自分の居場所を見つけることができたのでしょう。

同時に私たち自身にも変化があったのだと思います。恐らく放送当時の若さや熱量であれば、こんなのエヴァらしくないし望んだものではない、と感じてしまっていたのではないでしょうか。

「25年後の劇場版で大人になったシンジと子供のままのゲンドウが親子喧嘩の末に分かりあいます」というありきたりな結末を聞いたら「え?誰か庵野監督から引き継いだ平凡な監督が勝手にそんな結末を描いちゃったの?」とがっかりしていたかもしれません。

それくらいシン・エヴァは今までのエヴァの方向性とは異なる話を展開していました。それにも関わらず先述した通り、恐らく多くの視聴者がそうであったように私にはこれこそがまさにエヴァの「正統な続編」だとして受け入れることができました。

もちろんそこに至るまでの演出が素晴らしかったのは当然ですが、言ってしまえばただそれだけのことにも関わらず、私たちはこうも素直にこの結末を受入れることができ、それと同時に得も言われぬ満足感を抱いているのは、私たちもまた年を重ね、成長してきたからではないでしょうか。

確かに当初望んでいた結末ではなかったかもしれません。ですがそもそも「望んだ結末」というものを明確に描くことができていた人が鑑賞前にどれだけいたことでしょう。

庵野監督自身も新劇場版を製作した当初描いていた結末とは違っていたのではないでしょうか。誰も結末を明確に描くことができなかった中で、庵野監督は完結編に相応しい結末を描き切ることに成功したのです。

残された謎

もちろん細かな疑問はたくさん残ってはいます。個人的に1番気になっているのはマリが命がけでシンジを探し出した理由です。これまでの3作ではあまり感じませんでしたが、今作のマリは急に「どこにいても必ず見つけるからね、ワンコくん!」と、シンジを守る思いがとにかく強い印象を節々で感じられました。

漫画版での設定では、マリはユイのことが好きなのでユイの願いを叶えることが目的だと考察されている方がいましたが、どうにもここまで至るための理由として弱いように思えます。最終的にようやくシンジの中にユイを見たゲンドウのように、マリは最初からシンジにユイを見ていたのでしょうか?

ただ、ゲンドウも冬月も含めてユイのためなら全人類がどうでもいいと思っている人たちの集まりなので、大好きなユイの忘れ形見であるシンジを命がけで守ろうとする、というのはこの作品においてはあまり疑問に思う余地はないのかもしれません。

カヲル、ユイ、マリは多くの謎を残したまま終わってしまったように思います。そんな謎を考察という名の妄想をするのがまたエヴァの楽しみです。エヴァの物語はこれで終わってしまったのかもしれませんが、これからもまだまだ人々の間で議論され、語り継がれていくことでしょう。

オカエリナサイ、エヴァンゲリオン。

プロフェッショナルとは

追記:プロフェッショナル観ました。あまりnoteの内容には影響していませんが、エヴァには自分の今の気持ちが反映されていると言っていたので、あぁ、やっぱりそうなんだ・・・(心情を考えるしかないのか)と思ってしまいました。「謎に包まれているものを人は面白いと思わなくなってきている」(だから自分自身も作品もヴェールを脱いだ)というのが非常に印象的でした。

プロフェッショナルで私たち視聴者は、まるで第4使徒シャムシェル戦でエントリープラグに入ったトウジとケンスケのように、庵野監督の命がけで映画を制作する姿を垣間見ることができました。1つ分かったことは、このドキュメンタリーも含めてシン・エヴァンゲリオンという作品だということです。

最後に、この記事を書く上で色々な考察を読みましたが、その中でも一番良かった記事を紹介します。

【ネタバレ】『エヴァ』は本当に終わったのか 『シン・エヴァンゲリオン劇場版』徹底考察
https://realsound.jp/movie/2021/03/post-723725.html

映画だけではなく特撮も含めた豊富な知識で考察されていて、これが映画評論家の実力か!と思わされる記事でした。ぜひ読んでみてください。

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