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童心に帰るボンボン派

沢田ユキオ先生による『スーパーマリオくん』がコロコロミックでいまだに連載を続けているらしい。30年以上の長きに渡る、とてつもない偉業だ。ベルセルク然り、はじめの一歩然り、バガボンド然り、漫画という視覚芸術に触れ始めた頃から存在している作品群が、終わる気配がちっとも見えないどころか作品によっては連載再開が暗礁に乗り上げているのはさておいて、何世代にも渡って愛され続けているのは素敵なことだと思う。

かくいう自分はコロコロではなくボンボン育ちなので、それはもう誰とも話が合わなかったのだけれど。対岸の代表作ぐらいは知っている。なんならドラベースとビーダマンは単行本買ってた。

コロコロではなくボンボン、ゲームボーイではなくゲームギア、プレステではなくセガサターン、PS2ではなくドリキャス。ジャンプと言えば週刊ではなく月刊。もしくはVジャン。メインストリームから外れた”じゃない方”の役満が、自分の構成要素の大部分を占めている。

生涯愛読し続ける『トライガン』『機動警察パトレイバー』『ヨコハマ買い出し紀行』etcといった個人的殿堂入り作品はさておいて、漫画を読むという行為の原体験、原風景は間違いなくコミックボンボンだった。
大人になった今改めて目を通せば、何が面白いんだか、どこが笑えるのか、と穿ってしまうかも知れない。「あれ、こんなんだったっけ」と、思い出補正とのギャップによるなんか思ってたのと違う感に支配されるかも知れない。決して褒められたものばかりではなかっただろうし、ヒットチャートに食い込んで漫画好きの間で語種になるような作品もない。何百万部発行!とテレビで特集されることもない。コロコロコミックが天高く舞い上がり日本中の小学生の心を掴み散らしていく一方で、地中深く潜り込み反対側から突き出てしまうのをよしとするような曲者揃い。

それでも当時は夢中になって読んでいた。発売日に本屋さんにダッシュして、息を切らして家路に着いた。

当時まだコミックボンボンしか知らなかった自分は、親鳥についていくヒナよろしく、ボンボンエンクロージャーの中で4年ほど純粋培養された。第二次性徴期を”じゃない方”に費やしてしまったがために、こんな大人が出来上がってしまった。後悔はない。

なお後になってコロコロやらジャンプやらサンデーやらマガジンやらといった外の世界を知るようになるのだけれど「なんか違う」と感じてしまうようになる。ボンボンじゃないとダメな身体にさせられてしまった。

不思議なもので「ボンボンを読んでる自分」が、他とは違うような気がしてカッコ良かったのだ。スクールカースト上位の学級委員の女の子に髪の毛を三つ編みにされた挙句ハサミでちょん切られていた程度のいじめられっ子だったけれど。体操着を水槽に沈められたりしていたけれど。ボンボンに罪は無いことだけは念押ししておく。ボンボンは悪くない。やるなら俺をやれ。

それはさておき、枕に顔を埋めて叫びたい。傷って癒えないね…。
黒歴史開墾による体温の急上昇で自然発火が起きては困るので軌道修正。

「あの頃何読んでたっけ?」を掘り起こしてみる。

特に鮮烈なのは藤異秀明先生による『真・女神転生デビルチルドレン』のコミカライズ版。これは「児童誌のベルセルク」と渾名される伝説の作品で、大人になった今読んでもゾクゾクするほどの強烈な熱量を誇るので、アトラス作品が好きな人はぜひ一度手に取ってみて欲しい。
そして想像してみて欲しい。小学生が、それまでの生において目にしたことのない”凄まじく過激・苛烈な暴力/心理描写の漫画”がこの作品だったら、と。原体験がこの作品というのは、衝撃的なんて言葉で片付けられるものではない。

※児童誌の作品です

これの掲載を許可していた編集部もすごいし、読者人気が1位をマークしていたのもすごい。一度本誌を開いたが最後、読み手を引き摺り込む無差別級の災禍のようなものであった。コロコロでは悪の組織がオモチャで世界征服をたくらんでいたけれど、ボンボンでは小学生が命懸けの殺し合いをしていた。ちなみに”お下品ギャグ”の枠から逸れた性的な描写も多かったので、教育熱心な親御さんが見たらカニぐらい泡吹いて倒れてたと思う。
こんなの読んでたら中二病より先に小二病が来てしまう。ボンボンの功罪はあまりに重く、その業はあまりにも深かった。

もしも僕がコロコロ派のスクールカースト上位に属していたら、確かにボンボン派は怖かったかも知れない。得体が知れねぇ、と思ったかも知れない。

ちなみに

小学校も半ばに差し掛かった頃、孤独に耐えかねてコロコロ派の仲間入りを果たそうと試みたことがあったが、その際に手に入れたのはミニ四駆ではなくダンガンレーサーだった。ミニ四駆よりカッコよく見えたんだ。

コロコロの里へ入るための通行証の発行ミスである。


辛くなってきたのでボンボンに話を戻す。

次いで大好きだった作品に『メダロット』がある。当時はまだ一般的でなかったインターネット/ソーシャルメディアが昨今インフラ化したお陰で「あの頃ボンボンを読んでいた人たち」を探し出せるようになったので、本記事を書くに辺りサーチしてみたところ

結構な数の同志が居ることが判明。
何度も言うが児童誌の作品である。本当に児童誌か??大丈夫????

作者のほるまりん先生には人格形成において多大なる影響を受けましたこと、この場をお借りして感謝御礼申し上げます。
作中の名言/名シーンの数々、デザインセンス、画力も然ることながら、とりわけキャラクターの台詞回しが大好きでした。

”台詞回し好き度ランキング”なるものがあったらパトレイバーに次ぐかも知れない。あの空気感がたまらない。

ほかクールな義賊の『王ドロボウJING』、お洒落さと浪漫がふんだんに盛り込まれた『幻想世界英雄烈伝フェアプレイズ』、あずま勇輝先生の『SDガンダムフルカラー劇場』などが記憶に新しい。他にも色々あったはずなのだけれど、絵は浮かんでくるのに作者とタイトルが思い出せない。

これまた思い出せないのだけれど、いつの間にか読まなくなっていた。気がつけば月刊少年ジャンプやVジャンプ、ファミ通を手に取るようになっていた。作品が連載途中でも読むのをやめるものなんだろうか…精神面でどのような変遷があったのかさえ思い出せない。

『神風怪盗ジャンヌ』を愛していた子たちは、神と魔王の最終決戦を最後まで本誌で見届けたのだろうか。『満月をさがして』を読んでいた少女たちは、めろこやタクト達がどうなったのか見終えてからりぼんを卒業したんだろうか。

ボンボンの中で戦って成長していたキャラクター達はどんな最後を迎えたんだろうか。知らずに手の内から離れてしまった。いや、手放したのはこっちだったか。

そして2007年には遂に廃刊となってしまった。「笑っていいとも!」ぐらい当たり前に存在しているはずのモノのひとつであっただけに、ものすごい愛惜の念が押し寄せたのを覚えている。買うのはとうの昔にやめていたけれど。ボンボン小学校の卒業生としては、母校が無くなるのを知らされるのは胸に迫るものだった。同級生一人もいなかったけど。それでもだ。

もし「あの漫画って結末どうなったんだろう?」「まだ連載してるのかな?」「作者はどうしてるんだろう」とふと頭をよぎることがあったら、あの頃の時間に還ってみては如何だろうか。そして現代にはインターネットがあるので、電子の海で足跡を追うことも可能だ。

ファミ通のみずしな先生やるるる先生の読者にはお馴染みの漫画たち、Vジャンプで連載してた『犬マユゲでいこう』もむちゃくちゃ大好きだった。月刊少年ジャンプは、スクェアに以降してからの動向は掴めていない。『ニューヨークダストボックス』と『アナログフューチャー』という読み切り作品を掲載していた作者の名前が思い出せない。すごく好きだった。『ドラゴンドライブ』の終わり方は本当に見事だった。月ジャン休止直前の突然の打ち切り/最終回ラッシュには面食らった…。

少なくとも思い出は思い出のまま、あの頃の気持ちに帰れるパッケージとして真空保存されているので、今回みたいに機会があったら少しずつ外に出してみたいと思う。

これまたちなみに

「サインするー?」と向こうから言ってくれた・・・感激・・・!

みずしな孝之先生には知人の紹介で実際にお会いさせていただく機会に恵まれたことがある。『いい電子』をはじめ、長年色んな作品を読ませていただいた。月ジャンでも映画紹介や、ご自身が所属する劇団の漫画を描かれていた。それらに対する感想や、創作行為を続けてくださることへの感謝を熱っぽく語ったのに対し、辟易することもなく優しく受け止めてくださいました。よき思い出です。ありがとうございました。

多感な時期に多くの作品に触れてきたけれど、自分は終わりを見届ける前に大人になってしまったのだ。作中のキャラクターはいつまでも年を取らない、夢や冒険に満ちた少年少女なのに対して。
続きを見たいような、けれど終わりを見てしまったら本当に終わりを迎えてしまうような、なんとも言い難い感情に襲われるけれど。

忘れ物を取りに行くような旅に出るのも、たまにはいいかも。

最後まで読み切ってもらえてはじめて作者の物語は完成するのだと。そう考えたら作品や作者は、多感な時期に栄養をたくさん与えてくれた親のようなものなので、いつかちゃんと、その想いに応えたいと思う。
そんな風に思えるようになったのは、どうしようもなく大人になってしまったからこそ、なのかも知れない。

あの頃、道端に落ちてた”ちょうどいい長さの木の棒”は、間違いなく伝説の勇者の剣だった。山道は魔王城に向かうダンジョンだった。
オンラインゲームは、新たな世界の入り口だった。魔法は実在するんだと思った。

インクで紙に刷られた物語は、僕という人間の苗床に芽吹いて、いつまでも枯れることのない花となりました。

読んでくれてありがとう。

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