僕はこれからどう生きていくか。

「君たちはどう生きるか」を観た。

観た。たぶん、僕は観ただけだ。

僕はただの傍観者だ。

僕はジブリファンでもなんでもないただのミーハーだ。僕が最後に劇場で観たジブリ映画は2013年公開の「風立ちぬ」だ(宮崎駿作品にこだわっているわけではない)。今作は僕にとって実に10年ぶりのジブリ映画となった。この10年の間にジブリ作品は4作品あったが、どれも観ていないところから僕のジブリ作品に対する関心の低さが窺える。「風立ちぬ」を劇場で観た当時、中学生だった僕はいたく感動したのを覚えている。その後、主題歌を何度も繰り返し聴いた記憶が今でもある。しかし、今となっては作品そのもののストーリーはほとんど覚えていないし、覚えているのも、ストーリーの随所で見られる丘だったり青空だったり蚊帳だったりだ。とはいえ、僕はその事実を否定的に捉えているわけでもない。現実世界もそんなものだからだ。僕たちはいかに何かを覚えていようと努めても全てを少しずつ忘れていく。そういった意味では「風立ちぬ」は僕の人生の一部としてちゃんと溶けている感じはある。

意味のわからないことをつらつらと述べてしまった。本題に戻る。「君たちはどう生きるか」は引退を取り下げた宮崎駿最後の作品とも言われている。そして、今作はわかりやすいOOHやCMを一切行っておらず、「広告をしない映画」として、広告界隈で公開数ヶ月前から話題になっていた。次春から広告代理店勤務となる僕にとってもそういった意味でとても気になる作品だった。もしかすると今後の「広告」にとって重要な分岐点になるかもしれないなどとどこか作品そっちのけの態度を僕はとっていた。基本真っ白なgoogleカレンダーの7月14日の欄には数ヶ月前から「君たちはどう生きるか」の文字が記されていた。

7月15日。公開二日目。公開初日を終え、SNSで作品の話題が急速的に広がり始めていた。かなりの初速のように思え(実際に公開4日目で「千と千尋の神隠し」を超える初速を叩き出す)、ネタバレを恐れた僕は近所の劇場に駆け込んだ。宮崎駿最後の作品と言われているからだろうか、なんとなく歴史的な瞬間になる気がした僕は、パンフレットを買って保存するべく物販コーナーを物色していた。ジブリ関連グッズがたくさん並ぶ中、お目当ての「君たちはどう生きるか」のパンフレットが見当たらない。「クリアファイルはあるんだけど、、」とその周辺に目をむけると「パンフレットは映画上映期間終了後に販売いたします」と小さく書かれた注意書きを発見した。僕はその場で小さな興奮を覚えていた。「徹底している!本当に情報をシャットアウトしているんだ!」と。そして、満を持して僕はスクリーンの前に座った。

作品を観終わったあとの僕はえもいわれぬ感情に包まれていた。「よかった」とも「悪かった」とも「感動した」とも言えない。僕はただただ圧倒されていた。映画鑑賞後、友人と食事をしたが、感想を述べることはできなかった。ネタバレを恐れてではない。感想を述べることで何かが崩れる気がしたからだ。しかし、そもそも感想なんてものが僕の中にあったのだろうか。いや、その時点では、言葉にできる感想なんてなかったのだろう。そして帰り道の書店で、吉野源三郎の「君たちはどう生きるか」を買った。なんとなくそれが感想すらも述べられない僕が、作品に対してできる唯一の行動であるように思った。

公開3日目を過ぎた頃には、SNSだけではなく、友人の間でも「君たちはどう生きるか」が話題になっていた。その中でもいち早く鑑賞を終えていた僕はやはりというべきか、作品の感想やちょっとしたネタバレなんかを求められた。「本当にネタバレしていいの〜?」なんて言いながらそれらの質問をそれとなく答えることで回避した。何度か繰り返されたその一連のやり取りを通して僕の中に感想なんてものはやはりなかったのだと痛感した。その頃には、絶対にもう一度観なければならないという思いが僕の中でふつふつと込み上げていた。確かめなければならない。しかし、確かめなければならないその「何か」を僕は理解していなかった。とにかく矛盾を孕んだ数日を僕は生きていた。それでも僕はもう一度あの作品を観なければならない。その頃には、「広告がどう」などという話はどうでもよくなっていた。

公開からちょうど1週間が経った7月21日。僕はふたたび劇場へと足を運んだ。SNSでは作品に対する考察が出始めており、考察記事のいくつかはツイッター上で万バズを果たしていた。それらをひとまず「いいね」で保存しておいたが、先に読んでおくべきだったかもしれないと、スクリーンを流れる他作品の紹介映像を前に少しばかりの後悔を僕は感じていた。もしかすると3回目もあるのかもしれない。そんなことを考えているうちに場内の照明がグッと暗くなった。二回目の「君たちはどう生きるか」が始まる。


タリーズで僕はPCを開いた。ここに来るまで特に何も考えていなかった気がする。ひとまず、自分のぐちゃぐちゃとした感情をそのままに、考察でも読んで頭を冷やそうと考え、帰り道のタリーズに寄った。そして僕はおもむろにツイッターでいいね保存しておいたnoteを読み始めた。

正直、どれもこれも、僕にとってはどうでもいい内容だった。どの文章もどこか合っているようでどこか間違っている気がするし、納得のいく内容かと聞かれればそんな気がする一方で、どれもこれもただの都合の良い解釈のような気もした。戦後がどうだとか、アニメとはなんたるかとか、宮崎駿の人生がどうとか。どれも心底どうでもよかった。たしかに言い得て妙な文章もたくさんあるし、どれも考察が深くて「へえ〜」と感じたがそれ以上のものはなく、作品そのものから僕が感じた「表現しようのない何か」はどの文章でも言葉にはされていなかった。もはや文章で評論することすらもヤボな気がしてきていた。

そんな文章をいくつか読んだあと、ある文章に行き着いた。それはジブリファンによる公開前考察の記事だった。

https://purplepig01.blog.fc2.com/blog-entry-326.html

まるで物語のあらすじを述べているかのような考察(驚くべきはこれが公開前になされているということ)。大量のリファレンス。全てが事実ベースで書かれていて、読んでいて心地よさすら感じた。抽象化されることなくただ淡々と具体的な考察が進められている。考察文から、いくつもの情報がとっくにリークされていたことが窺える。記事を書いている彼は宮崎駿が物語を描くのとほぼ同時進行で「君たちはどう生きるか」を共に考えてきたのだ。目に見えない絵コンテを想像し、それを見つめ共に作品を考えてきたのだ。宮崎駿と共に生きてきたと言っても過言ではないだろう。

そんなジブリ愛の詰まった記事を前に僕はいたたまれない気持ちになった。何をポッと出の僕がたったの数ヶ月前から「広告が〜」なんて言いながら作品を消費していたのだと恥ずかしくて記事を読む手が止まってしまっていた。彼は宮崎駿ひいてはジブリとともに今作を考え続けてきたのだ。今作はそんな彼らのための作品なのではないだろうか。そんな気持ちが僕の中ににわかに芽生えてきていた。本当に作品を追い続けた者だけが作品を堪能できる。そのための無広告だったのではないだろうか。いかに自分がただ作品を刹那的に消費していた傍観者だったかを痛感させられた。ジブリファンのための作品、僕はそこに土足で踏み込んでしまったのかもしれない。しかし、それが必ずしも悪だとも言い切れないだろう。作品が世に出た以上、(ロランバルトが言うところの)作者の死は免れない。解釈は人の数だけある。大事なのはどう真摯に作品と向き合うかなのだろう。

作品に対する真摯な向き合い方をこの作品、そしてジブリファンの彼(彼女だろうか)は僕に教えてくれた。その時僕のこれからの生き方の一つが決まったような気がした。

文庫化された「君たちはどう生きるか」の背表紙の言葉に全てがこもっているように感じるので最後にその引用で締めくくりたいと思う。

「君自身が心から感じたことや、しみじみと心を動かされたことを、くれぐれも大切にしなくてはいけない」


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