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外山雄三さん、飯守泰次郎さんを偲んで~コンサートマスターに聞く~〈前編〉

 長きにわたり日本オーケストラ界を牽引してきた二人の巨匠指揮者、外山雄三と飯守泰次郎が、2023年、相次いで鬼籍に入った。彼らには長くシェフを務めたオーケストラがあり、それぞれのコンサートマスターが右腕となって支え、数々の名演を作り上げてきた。ここでは2回にわたり、両コンサートマスターにマエストロの素顔を語ってもらい、両巨匠の偉業を振り返っていく。


外山 雄三先生 ~森下 幸路さんに聞く~

森下 幸路
大阪交響楽団首席ソロコンサートマスター
米国シンシナティ大学にてドロシー・ディレイ女史に学び桐朋学園大学卒業、江藤俊哉、小林健次、田中千香士に師事。仙台フィル(1994〜2000年)、大阪響(2000年〜)

 私はキャリアの最初が仙台フィルのコンサートマスターで、採用してくださった方々のお一人が外山雄三先生でした。そこで貴重な経験を積むことができたのですが、30代半ばに退団しました。それは拠点を変えたいという事情と、正直に申し上げますと、その時期の外山先生の指導法に違和感を持っていたこともあります。 

 その後、大阪交響楽団のコンサートマスターに就任しましたが、あるとき楽団から「外山先生をお呼びしたい」と相談がありました。彼のもとを一度去った手前、少し悩みましたが、ここでお会いして解決しなくてはいけない、改めて先生と向き合おうと考え直しました。

 それから定期演奏会に度々お越しくださるようになり、演奏の他でも接する機会が増えるにつれてわだかまりは薄れ、むしろ先生から教わるべきことがたくさんある、と心から思うようになりました。そして大阪響も外山先生に来ていただけたら前に進めると考えて、積極的に楽団内の話を進めて実現に至りました。

 人と話をして物事を進めるときは、言い方によって決まる面が多いと思います。先生はその言い方が独特で、最初はスムーズには行かないタイプの方でした。でも、正しいことを言っている人は、言い方を超えて伝わるものがあり、特に音楽の世界では必ず皆がわかっていきます。

 外山先生が、昭和の黎明期から令和の現代まで、日本の音楽界を牽引してきたということは厳然たる事実です。紛い物だったらとっくに消えているはずです。ただ、彼の音楽そのものと言うべき本質は、私も若い頃にはわからず、時間をかけて理解できました。そしていつしか私が先生の通訳のような立場になり、先生の思いを噛み砕いてメンバーに伝える努力をしました。

 先生とはよくお食事にご一緒させていただきました。お肉とワインが多かったです。先生は物凄く早食いで(笑)、よくお食べになる。晩年までそれは変わりませんでした。食事のときは音楽の深い話や、昔の話を伺うのが本当に楽しかったですね。

飯守 泰次郎先生 ~戸澤 哲夫さんに聞く~

戸澤 哲夫
東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団コンサートマスター
東京藝術大学大学院在学中の1995年、東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団コンサートマスターに就任。モルゴーア・クァルテット、The 4 Players Tokyo メンバー。

 飯守泰次郎先生との最初の出会いは、東京シティ・フィルに正式に入る前の1994年です。先生の第一印象は、正直言えば、わけがわかりませんでした(笑)。何を振っているのか、何を言っているのか……未知との遭遇と言いたいくらいの衝撃でした。

 私のコンサートマスター正式就任は1995年で、先生の常任指揮者就任は97年。最初の1年は試行錯誤でしたが、98年から1年間ドイツ留学し、それが先生の音楽を理解する転機になりました。ドイツ帰国後の共演時にストンと落ちるものがあり、おそらく先生の思考は基本的にドイツ語で、私もそのリズム感や間の感覚を身につけて、自然に馴染んだのだろうと思います。

 2000年代はワーグナー・シリーズが始まり、体の隅々までワーグナーの音楽が詰まっているかのような飯守先生の存在感は唯一無二でした。シリーズは当初は単年の予定でしたが、公演がうまくいってお客様が熱く支持してくださり、継続できました。その積み重ねは大きかったです。

Ⓒ金子力

 飯守先生の壮大な音楽を支える大事なポイントは、調性に対するこだわりです。私たちも調性の変化、和声の色合いの違いをどう捉えるかに敏感になっていきました。ワーグナーはそれを心理描写等に多用しており、私たちが変化の瞬間をスルーしてしまうと先生はもう激怒です(笑)。ライトモチーフの表を配って勉強しましたし、リハーサルは毎回計10回前後ありました。

 先生は妥協するということは全くありません。最初の頃は一触即発みたいな空気感になることが特にワーグナーではあって、適切な瞬間にクールダウンさせることも私の役割でした(笑)。でも先生と最高の演奏ができるオーケストラになりたいという思いは強まり、そのために何が必要か、楽団の制度的な問題も含めて対処していきました。

 実は先生はお茶目なところもあり、演奏中に突然指揮台で踊り始めたりとか、人間味にもあふれている方でした。裏表もありませんし、お互いに人として信用し合えていたと思います。

ⒸK.Miura


(インタビュアー:林 昌英 音楽ライター)

2024年7月31日発行
「日本オーケストラ連盟ニュース vol.114 40 ORCHESTRAS」より


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