見出し画像

レ・ミゼラブルを観てきました



 昨日、ロサンゼルスのパンテージ・シアターに、レ・ミゼラブルを観に行きました。


 レ・ミゼラブルは、1990年代日本初演の時に2回、1995年にロサンゼルスで観て以来、およそ30年ぶりの鑑賞となりました。その間も映画化されたり、25周年記念のコンサートがテレビ放映されたりしていたので、そこまで久しぶりという感覚はなかったのですが、同行する、原作も知らない息子にあらかじめストーリーを説明しようとしたところ、説明できるほどの詳細を思い出せず、30年という時の長さを感じました。


 しかし、何より時の流れを感じたのは、今回のキャスト陣の多様性でした。主要キャストだけを見ても、フォンテーヌとマリウスが黒人、エポニーヌが韓国系、幼少時代のコゼットがヒスパニック系、ガブローシュがフィリピン系と、30年前ではありえない非白人アクターの起用に、胸が熱くなるものがありました。特にエポニーヌ役のChristine Heesun Hwangさんの歌唱力と表現力は素晴らしかったです。



 アメリカでブロードウェイミュージカルを観て思うのは、やはり一人一人の実力の高さです。興行方法の違いなので仕方がないのですが、「歌もそこそこ歌える芸能人」を起用する日本のプロダクションと、ツアーが終わったら次の仕事が約束されているわけではないシビアな状況を生き抜いているアクターで構成されるアメリカのシアターでは、比べ物にならないのです。


 それでも、私は今回のレ・ミゼラブルを観ながら、どこか物足りないものを感じていました。アーティストは申し分ないどころか、一曲一曲心を揺さぶられるのに、このモヤる気持ちは何なのか、帰り道も今日も、ずっと考えていました。



 私が引っかかったのは、主に3つのシーンです。エポニーヌが死ぬところと、ガブローシュが死ぬところ、そして、アンジョルラスが死ぬところ。そう、全てバリケードの戦闘シーンなのです。そして、全て死の描写。


 初めて見た舞台の印象が強いだけなのかもしれませんが、私が号泣した30年前の日本プロダクションでのこのシーンは、それぞれの死が、とても丁寧に描かれていたように思うのです。


 わざわざ危険な戦闘地までマリウスに会いに行って流れ弾を受けたエポニーヌの想いの強さが描かれていてこそ、涙なしには聴けないマリウスとのデュエット。そして、バリケードのてっぺんで倒れたアンジョルラスの死は、今でも脳裏に焼き付いているほど劇的でした。また、今のマッチョな肉体からは想像もつかないほど愛らしかった山本耕史くん演じるガブローシュ。敵陣の弾薬の袋を取りに行って犠牲になる過程が、胸をえぐられるような丁寧さで描かれていたのです。


 それを思うと、今回の3人の死は、「みんな戦闘の混乱に巻き込まれました」ぐらいのさらっとした演出だったのです。


 30年も経って今更なのですが、改めて、ジョン・ケアードという演出家の凄さを知りました。そして、その大胆かつ細やかな演出に応える表現力が、日本人俳優にもあったのではないかと思うのです。


 日本とアメリカではキャストの実力が比べ物にならない、などと知ったような口を叩いたばかりですが、実は、レ・ミゼラブルのような泥臭いヒューマンドラマにおいては、声量だとか技術的な歌唱力よりも、細やかな表現の方が求められるのではないか?つまり、日本人俳優の方が、この作品をより感動的に表現できるのではないか?と思ったのです。


 機会があれば、日本のレミゼをもう一回見て、その辺を確かめてみたいなと思いました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?