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ママ、宗教の話はよしてよ

今日はずっとサボってた日記を書くぞ!!

母親との約束を破ってしまって喪失感と申し訳なさがある。
けれど宗教行事なので「わたしは信仰してないし(悪くない)」という気持ちも内在している。

宗教とはやはり強制されるものではないしさせられるものでもない けれど 母親との約束 という一面があるので一概に私に非がないとは言い切れないのだ。 そして、こんな御託を並べている自分も姑息で嫌いだ。

母は熱心な宗教家であるのに対し、

私は宗教に関してあまり一貫した態度をとっていない。なんとなく手を合わせて集中して題目を唱えることもあれば、眠りこけることもある。


母に連れられて体験発表会に行った際

「今の世の中は穢れているからコロナの収束には宗教勧誘が必要不可欠だ」というようなことを宣ったりする青年や「花に毎日言葉をかけ続けると声掛けをしなかった花よりよく育つ実験が〜」などという胡散臭い話をする中年らの話を聞いた。

頭を上下に揺らして熱心に話を聞く母親や周囲の信者がひどく気味悪く見えた。


わからない。


本当にわからない。
何故そうやって信じられるのか。わたしには信じられないのか。

人生を良くするためという目的があり心の安寧をはかるための手段として仏壇の前で手を合わせることは理解できる。

だが、わたしの愛する母親はどうだろうか。
宗教活動において人生の基盤や価値観をアイデンティティを確立しているではないか。ままならないことが多い人生で
死後の救済のために現世を費やすという行為に合点がいかない。


私「〇〇さんって人とさ、結婚したいって言ったらどうする?」
母「うーん良いと思うけどちょっとだめかな、、、」
私「えーなんで」
母「〇〇宗信仰してないし」「、、なんちゃって」

昨日のやりとりだが凄まじい嫌悪感を抱いた。


おねがいだよ、ママ
宗教がママにとって生きる上で必要なのは否定しない。そうやって信じられるのは皮肉抜きですごいと思うし、信じないと生きてこれないような事情があってそうなっているんだと思う。
でもさ、私にはそんなことより、もっと、普遍的な愛が欲しいよ。宗教行事の約束だけじゃなくて、一緒にお洋服屋さんにお出かけする約束が欲しいよ。
なんで拒んでるのに嬉しそうに仏様の話をするの?
私の幸せのためっていつも言うけど私の幸せは私だけが感じられるものなのに、なんで脅すようなこと言うの。
いつも優しいママが好きだ。だから、これ以上ママに求めたりする自分でありたくない。
でも、、日常に顔を出す宗教観が静かに確実にわたしを蝕む。
本当は泣きたくなかったな、



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